歴史繚乱ブログ

元禄事件(忠臣蔵)の考察、史跡廻りなど

韓国の歴史教科書「三国時代の伽耶諸国=任那②」

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三国の政治的発展

 高句麗は3世紀半ば魏の侵入を受けて一時衰退したが、4世紀に至って五胡十六国時代の混乱に乗じて活発に対外膨張を図った。美川王のとき楽浪郡の勢力を完全に追い出した高句麗は、鴨緑江中流地域を捨てて南に進出することのできる基盤を整えた。

小嶽林王のときには、律令の頒布、仏教の公認、太学の設立などを通して地方に散在した部族勢力を効率的に統制しながら中央集権国家への体制を強化しようとした。

 百済は4世紀半ば近肖古王のときに大きく発展した。このときの百済馬韓の勢力を征服し、全羅道の南海岸に達し、北には黄海道地域をめぐって高句麗と対決した。また、洛東江流域の伽耶に対しても支配権を行使した。

 征服活動を通して蓄積した軍事力と経済力を土台に百済は水軍を整備して、中国の遼西地方に進出し、ついで山東地方と日本の九州地方にまで進出するなど活発な対外活動をくり広げた。

 こうして、百済の王権は次第に専制化し、父子相続による王位継承が始まった。枕流王のときには仏教を公認して中央集権体制を思想的に支えた。

 一方、新羅は5世紀初め百済と同盟を結んで高句麗の干渉から逃れようとし、5世紀末には六村を六部の行政区域に改編した。

 冨笙に至って、政治制度がさらに整備されて国号を新羅に変え、王の称号も麻立干から王へ直した。そして都と地方の行政区域を整理し、対外的には于山国鬱陵島)を服属させた。

 ついで法興王は兵部の設置、律令の頒布、公服の制定などを通して統治秩序を確立した。また骨品制度を整備し、仏教を公認して新しく成長する勢力を抱き込もうとした。さらに建元という年号を使用することによって自主国家としての位相を高め、金海地域の金官伽耶を征服して領土を拡張した。こうして新羅は中央集権国家体制を完備した。

 

高句麗の倭撃退

(永楽)9年(399)己亥、百済が誓約を破って、倭と通じたので、王は平壌に巡幸した。新羅が使臣を送って王に言うに、「倭人がその国境にぎっしり滴ちて城を壊したので、老客は民となった者であって、王に帰依して命令を請う」と。……10年(400)庚子、歩兵と騎兵5万を送り、新羅を救援させた。……官軍が到着すると倭敵が退いたので、後を急撃して任那加羅の従抜城に至った。城がまもなく帰順して服従したので、巡遍兵を置いて守らせた。新羅の口農城を攻略すると倭寇は萎縮して壊滅した。く広開土大王陵碑文>

 

三国間の抗争

 中央集権体制を整備した三国は、5世紀に入ると対外膨張を図った。高句麗は小獣林王のときの内政改革を土台に広開土大王のとき満州地方への大規模な征服事業を断行し、ついで新羅と倭・伽耶間の勢力競争に介入して、新羅に侵入した倭を撃退することによって韓半島南部にまで影響力を及ぼすようになった。その後、長寿王のときには、興安嶺一帯の草原地帯を掌握する一方、中国の南北朝とそれぞれ交流し、対立していた二勢力を操縦する外交政策を操って中国を牽制した。また平壌に都を移し(427)、ついで百済の都漢城を陥落させ、漢江全域を含む竹嶺一帯から南陽湾をつなぐ線までその版図を広げた。このような高句麗の漢江流域進出は広開土大王陵碑と中原高句麗碑によく現れている。

 このように続いた対外膨張によって、高句麗東北アジアの覇者として君臨した。高句麗満州韓半島にわたる広大な領土を領有し、政治制度を完備した大帝国を形成して中国と対等に力を競うようになった。

 百済は5世紀以後、高句麗の積極的な南下政策に押されて熊津(公州)に都を移し(475)、対外膨張政策は衰退した。しかも、中国と日本地域の情勢変化によって貿易活動も沈滞し、経済的にも困難を味わった。この過程で王権が弱まり、貴族勢力が国政を主導した。

 5世紀後半、東城王のときから百済は再び社会が安定し、国力を回復し始めた。東城王は新羅と同盟を強化して高句麗に対抗し、武寧王は地方の二十二擔魯に王族を派遣することによって地方に対する統制を強化した。こうして百済中興の基盤が整えられた。

 聖王は対外進出の図りやすい沘(扶余)に都を移し(538)、国号を南扶余に変え、中興を図った。聖王は中央官庁や地方制度を整備し、仏教を振興し、中国の南朝と活発に交流するとともに日本に仏教を伝えたりした。一方、聖王は高句麗の内政が不安定な隙に乗じて、新羅と連合して一時的に漢江流域を部分的に修復したが、まもなく新羅に奪われ、自らも新羅を攻撃したが管山城で戦死してしまった。

 新羅は6世紀の真興王になって、内部の結束をさらに強化して活発な征服活動を展開し、三国間の抗争を主導し始めた。真興王は国家発展の人材を養成するため花郎徒を国家的な組織に改変し、仏教教団を整備して思想的統合を図った。

 これを土台に真興王は高句麗支配下にあった漢江流域を奪い、咸鏡道地域にまで進出し、南は高霊の大伽耶を征服して洛東江の西側を掌握した。特に、漢江流域の掌握によって経済基盤を強化し、戦略拠点を確保することができ、黄海を通して中国と直接交易できる有利な足場を整えたのである。これは以後三国競争の主導権を新羅が掌握するきっかけとなった。このような真興王の征服活動に関する事実は丹陽赤城碑と4つの巡幸碑を通してよく理解できる。

 伽耶連盟も5世紀初めに大きく変わった。前期伽耶連盟が解体され、金海、昌原を中心とする東南部地域の勢力が弱まった。反対に、それまで後進地域だった北部の高霊、陝川、居昌、咸陽などの勢力は自らの領域を維持していた。彼らは5世紀後半、高霊地方の大伽耶を新しい盟主として後期伽耶連盟をつくりあげた。6世紀初めに大伽耶百済新羅と対等に勢力を争うようになり、新羅と結婚同盟を結んで国際的孤立から抜け出そうとした。

 以後、新羅百済の争いの中で後期伽耶連盟は分裂して金海の金官伽耶新羅に征服され、伽耶の南部は新羅百済によって分割占領された。結局、大伽耶新羅に滅亡させられ(562)、伽耶連盟は完全に解体された。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

高句麗の倭撃退」日本を打ち負かしたことを誇示したいんでしょうね(笑)それなら直近のココの部分の感想も聞いてみたいものです(笑)

「百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以爲臣民

高句麗は)古くより百済新羅を属民とし(両国は高句麗に)朝貢していた。しかし、倭が辛卯(391年)海を渡って来て、百済□□新羅を臣民とした」<広開土王碑>

 

日本書紀』にも百済倭国朝貢していたことが書かれています。

「卌七年夏四月、百濟王、使久氐・彌州流・莫古、令朝貢

(神功)47年夏4月、百済王の使い久氐・彌州流・莫古、朝貢する」

「五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶(中略)自是後、毎年相續朝貢

(神功)52年(*372年か)秋9月、久氐などが千熊長彦に従い(朝廷に)詣り、七枝刀一口(*石上神宮に現存,国宝)・七子鏡一面・及び種々重宝を献じた」(中略)これより後、毎年あい続けて朝貢した」

 

百済新羅のヤマト政権・中国王朝への朝貢。それは、朝鮮半島での百済新羅高句麗、三国の勢力争いが激しくなり、背後にいたヤマト政権・中国王朝を牽制するための、味方につけ軍事同盟・援軍派遣を乞うための擦り寄り外交でした。この時期、仏教、医・易・暦など多くの大陸の先進文化が百済よりもたらされました。しかし、それは単に百済が親切心で倭国に伝えたものだったのでしょうか。百済がヤマト政権に擦り寄るための外交カード、プレゼントだったのでしょう。人質として倭国で生まれ育った百済王子や渡来僧も数多くいました。

その後、長らく倭国と激しく対立していた高句麗も、隋が中国を統一すると危機を感じ、ヤマト政権へ擦り寄って来ます。その時、友好の印として渡来したのが後に聖徳太子の師僧となる慧慈であったり、紙・墨の製法の伝播でした。百済高句麗は競い合って、ヤマト政権に僧を送って来ています。

さて、ここで登場するのがご存知、聖徳太子厩戸皇子)です!古代の人とは思えないほどのグローバルな視野と先見の明により、彼は脱朝鮮半島を目指します。戦乱に明け暮れる朝鮮半島への介入をやめ、直接、中国より先進文化を学ぼうとしました。歴史の教科書でもお馴染みの遣隋使です。

聖徳太子の政策転換により日本文化は、7世紀末の白鳳期には、唐・朝鮮半島とは異なる独自体系の儒学や詩文を生み出し、この後も日本独自の文化を生み続けていくことになります。