歴史繚乱ブログ

元禄事件(忠臣蔵)の考察、史跡廻りなど

韓国の歴史教科書「近現代史(社会①)日韓併合時代の社会」

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同胞の国外移住

 19世紀後半、朝鮮社会には貧困と収奪、自然災害などで生計の苦しい人々が多かった。彼らの一部は新しい生活の根拠地を求めて満州や間島、沿海州、日本、アメリカなどに移っていった。

 わが同胞が一番最初に移住した地域は満州沿海州だった。特に、満州地域は鴨緑江豆満江さえ渡ればよく、切り開ける農耕地も多く、狩猟や木を伐採しても生計が成り立ったからだった。

 満州地域に移住した同胞は荒地を開墾し、農業を始めた。1910年頃、間島をはじめ満州地域の韓人は20万人を超えた。

 日帝の弾圧を避けてここに移住してきた義兵や愛国啓蒙運動家は独立運動を続けた。彼らは学校を建てて民族意識を鼓吹し、独立軍を養成するなど独立運動の基盤を整えたり、国内の人々と手を結んで独立運動をくり広げていった。

 

(中略)

 

日帝強占期の社会変化

独立運動勢力の分化

 1919年の3・I運動が挫折した後、独立運動陣営の間に異なった意見が現れた。これは独立運動の方法や独立以後の国家体制などに対する認識の違いに始まったもので、独立運動陣営は民族主義運動、社会主義運動、アナーキスト運動などに分かれた。

 民族主義勢力は日帝の支配から抜け出して独立をなし遂げ、独立した後には資本主義体制の国家をうちたてようとした。しかし社会主義勢力は労働者、農民が中心となる社会主義国家を実現しなければならないと主張した。民族主義勢力は民立大学設立運動や物産奨励運動のような実力養成運動を推し進めた。これに反して、社会主義勢力は労働者と農民を組織して労働組合や農民組合をつくり、これを中心とした階級運動や独立運動を展開した。

 一方、3・l運動以後、社会主義思想がロシア、日本、中国から入り、青年・知識層を中心に社会主義運動が始まった。そして1920年代、国内では各種の青年会、思想団体、労働運動団体、農民運動団体が生まれた。独立運動の過程で社会主義勢力は理念や路線をめぐって民族主義勢力と対立したりしたが、労働運動、農民運動、女性運動、青年運動、少年運動など社会・経済的大衆運動の活性化に影響を与えた。

 

新幹会

 1920年代半ば、非妥協的な民族主義勢力は妥協論者の自治運動を警戒し、社会主義勢力と連帯してこれを阻止しようとした。社会主義勢力も1926年「正友会宣言」を発表してこれに呼応した。

 結局、非妥協的民族主義者と社会主義者は、理念や路線の違いを越えて民族協同戦線を結成することに意見を集約して、新幹会が創立された(1927.2)。

 新幹会は韓国人本位の教育実施、搾取機関撤廃などを主張し、社会運動も積極的に支援した。特に、元山労働者ゼネストの支援、甲山火田民虐殺事件の真相究明運動を展開した。また、1929年に光州学生抗日運動が起きると、現地に調査団を派遣し、調査結果を発表する民衆大会を準備したが、警察の弾圧によって挫折した。

 新幹会は民衆大会事件後、新しい執行部の闘争方法をめぐって内部で民族主義勢力と社会主義勢力の間に対立が生まれて解体してしまった。だが、新幹会は国内の民族運動勢力の力量を総結集させた。

 

農民運動と労働運動

 露日戦争後、日本人は本格的に韓国に渡ってきて安値で土地を買い入れる一方、高利貸を通して農民の土地を奪い取った。東洋拓殖株式会社は日本人農民を韓国に移住させて彼らに農業をさせた。韓国人地主も日本に米を輸出して得た富を再び土地に投資して大地主に成長することが多かった。

 この過程で多くの農民は土地を失って小作農に転落した。小作農民は収穫量の半分を超える小作料と地主が納めるべき地税負担まで一手に引き受け、マルムの横暴に苦しめられた。さらに小作人は1年を期限とする小作契約を強要され、生存権まで脅かされた。

 農村で暮らせなくなった農民は都市に出ていき、労働者や貧民になったり、鉱夫、火田民などとして生きていった。自然災害にあった農民は新しい生活を求めて満州沿海州、日本、アメリカなどに移っていった。

 このような中、地主に対する農民の抵抗意識が高まって全国各地で小作争議が発生した。全羅南道務安郡(現新安郡)岩泰島小作争議(1923)は代表的なものだった。岩泰島の農民は地主と彼らを保護する日本警察に対抗して1年近くたたかい、小作料を下げさせる成果を収めた。

 初期の小作争議は小作料引き下げなど生存権を守ろうとする経済的闘争だった。しかし1930年代に入り、農民運動は社会主義運動の路線変化とからみ合って大きく変化した。社会主義者は既存の合法的農民組合の代わりに非合法的、革命的農民組合を組織したが、日帝の弾圧でほとんど挫折した。

 一方、1910年代には全人口の80%以上が農業に従事し、労働者の数はとても少なかった。しかし1920年代には日帝の植民地工業化政策によって産業労働者の数が次第に増えていった。1930年代に北部地方に大規模な工場が建てられ、労働者の数もいち早く増え、1943年には100万人に達した。

 韓国人労働者の半分以上は、一日12時間を超える過酷な労働に苦しめられた。しかし賃金は、ほとんど同じ職種の日本人の半分にも及ばなかった。韓国人労働者の劣悪な労働条件と民族差別などは、労働者の階級意識民族意識を呼び起こし、労働運動をくり広げる背景となった。

 この時期のもっとも代表的な労働争議は元山労働者ゼネスト(1929)だった。このストライキは全国的に支持と声援を受け、世界各国の労働者も激励の電文を送って国際的連帯を誇示したりした。

 1930年代以後は日帝の兵姑基地化政策、戦時動員政策が進められ、労働者の労働条件はさらに悪くなり、労働争議に対する統制もまた大幅に強化された。

 

青年運動、女性運動、衡平運動

 3・I運動以後、独立運動における青年の役割が新たに認識され、さまざまな青年団体が全国で組織された。これらの青年団体は各種講演会、討論会などを開催して青年を覚醒させ、夜学を開いて学校に進学できない児童たちを教えた。また、物産奨励運動、民立大学設立運動のような実力養成運動を積極的に支援した。しかし1923年以後、青年団体は社会主義思想の影響を受け、運動の方向を転換して労働運動、農民運動、学生運動などに対する支援にさらに力を傾けた。

 一方、韓末以後新教育を受けた女性が増え、女性の社会意識も高まった。1920年代には女子青年会、婦人会など200余りの女性運動団体が組織された。女性団体は主に男女平等、識字率向上、旧習打破、生活改善など女性の啓蒙と地位向上に努めた。

 1927年5月には新幹会の姉妹団体として槿友会が創立された。槿友会は講演会や討論会開催、夜学設置などを通した女性啓蒙活動とともに、女性労働者の権利擁護運動を率先して行った。しかし1931年に新幹会が発展的に解散し、権友会も解散してしまった。

 一方、甲午改革のとき身分制度が廃止されたことによって、それまで社会的にぞんざいに取り扱われていた白丁も平等な地位を得たが、白丁出身者に対する社会的差別と冷遇は日帝独占期にも依然として残っていた。総督府は新戸籍をつくり、白丁出身者を戸籍に「屠漢」と書き込んだり、赤い点を記して差別した。学校入学通知書でも白丁身分を明らかにすると入学が拒否されたり、途中で学校をやめることも多かった。

 これに、白丁出身者たちは慶尚南道晋州で衡平社を創設し(1923)、平等な待遇を要求する衡平運動をくり広げていった。しかしまだ身分意識から完全に抜け出せなかった大衆は相変わらず白丁出身者を差別し、衡平運動に反対する反衡平運動が起きたりした。

 

人口の増加と都市の変化

 日帝強占期にも人口は増えていった。人口調査がある程度行われた1910年代末に国内に居住する韓国人は1700万人程度だった。1930年には2000万人、1942年には2600万人ほどに増えた。

 ソウル(京城)の人口は1920年に24万人程度であり、1940年には93万人と4倍ほどに増えた。総督府はソウルに都市改修計画を導入して都市の姿を大きく変えていった。また、景福宮、昌慶宮、慶煕宮のような伝統建築物はむやみに壊され、伍籍府、京城府庁舎、京城駅舎のような官公庁や公共施設、公園、学校などが相次いで建設され、ソウルの姿は次第に植民地都市の風景に変わっていった。

 一方、1930年頃ソウルには10余万人の日本人が住んでいた。彼ら日本人は本町(現忠武路)、明治町(現明洞)、黄金町(現乙支路)一帯を中心に日本人街をつくった。清渓川を境に南側の日本人街は南村、北側の韓国人街は北村と呼ばれた。当時南村の通りはソウルの政治と商業の中心地として官公庁、銀行、百貨店、商店街、舗装道路、信号灯、街灯、ネオンなど近代都市の外見を整えていたが、北村の通りはそうではなかった。このような都市の二重の姿はソウルだけでなく、日本人が多く住んでいた釜山、仁川、群山、木浦、馬山など開港場だった都市のほとんどがそうであった。

 

日帝強占期のソウルの名称

朝鮮時代のソウルの公式名称は漢城府だった。しかし1910年、日帝大韓帝国を強制併合し、京城と直し、当時日本人はソウルを日本式に「けいじょう」と呼んだ。

 

衣食住の変化

 近代文明の流入は衣食住の環境に大きな変化をもたらした。まず、衣服の面では会社員を中心に洋服を着る人が増えた。しかしほとんどは相変わらず韓服を着て、ゴム靴を履き、帽子をかぶり、韓式と西洋式を混用した。

 1910年代までに限っても、ほとんどの女性は昔ながらの髪に簪をさしていたが、ブラウスとスカート姿、短髪とパーマ、ストッキングとハィヒールなどは都市ではそれほど珍しい風景ではなかった。

 1940年代に戦時体制になり、男女の服装はすべて変えられた。男は韓服や洋服の代わりに国防色の国民服を着て、戦闘帽にゲートルを巻いた。女はスカートの代わりに、日本の農村女性の作業服であるもんぺをはかなければならなかった。

 食生活にも大きな変化が現れた。1910年以後、菓子、パン、ケーキ、カステラ、ビーフステーキ、スープ、アイスクリームなど西洋の食べ物が大衆にも本格的に紹介された。

 しかしこのような西洋食品の消費は主に都市上流層に限定され、一般庶民の食生活は状況はこれとはまったく違ったばかりか、食料事情が非常に悪かった。産米増殖計画以後、食糧が増産されたのに韓国人一人あたりの米の消費量はますます減った。ここに、中日戦争の勃発後、米の供出制を実施することによる食糧不足はさらに深刻になった。庶民は雑穀飯、粟飯、黍飯を食べたり、はなはだしくは松の甘皮でつくったソンギ餅、豆粕、敷、酒粕を食べながら、ようやく生きのびた。

 都市に人が集まり、以前に見られなかった住宅が現れた。1920年代以後、上流層の文化住宅中流層の改良韓屋、中下流層の営団住宅が登場した。

 1920年代に建てられた改良韓屋は舎郎房と門間籍がなくなり、テチョンマルにガラス戸を付けてニスとペンキを塗った混合型家屋だった。1930年代に現れた文化住宅は2階建ての洋館で、以前にはなかった廊下と応接間、寝室、子ども部屋など個人の独立した空間が生まれた。営団住宅は1940年代に入って建てられた、都市民、特に庶民の住宅難を解決しようとした一種の国民連立住宅だった。

 ソウルの町外れには貧民がバラックをつくって住んだ。バラック暮らしをする人は1937年、ソウル(京城府)の総人口70万余人の中でI万5000余人に達した。

 

短髪

1920年に美容師呉葉舟が日本から戻って和信百貨店に美容室を開業して短髪を普及させ、流行した。短髪に対する討論会が開かれるほど論議が沸騰したが、新学問をした者はともかく大部分は否定的だった。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

ツッコミたいところは色々あるけど3点だけ

 

甲午改革のとき身分制度が廃止されたことによって、それまで社会的にぞんざいに取り扱われていた白丁も平等な地位を得たが、白丁出身者に対する社会的差別と冷遇は日帝独占期にも依然として残っていた。

韓国では「『甲申政変』と『甲午改革』で身分制度が廃止された」と教えていて、韓国人も実際そう思っています。韓国人は、民族的自尊心を保つためからか甲申政変・甲午改革への評価が異常に高いです。

甲申政変は、福沢諭吉を師事し日本に留学経験もある金玉均が起こした政治クーデターです。四民平等を宣言し、賎民(奴婢・商人・芸人・僧侶・巫女・白丁などの最下層の身分,奴婢・白丁には姓・戸籍がなく、奴婢は両班の所有物で売買の対象)にも戸籍を与えるよう戸籍法の改正を掲げましたがクーデターは3日で失敗。その後、金玉均朝鮮人のテロリストに暗殺され五体を引き裂かれ朝鮮全土に晒される遅刑刑にあっています。

甲午改革は、日中戦争中に日本が発足させた金弘集内閣による「封建的身分制の廃止」「奴婢・白丁の廃止」「人身売買禁止」などを掲げた政治改革です。しかし、ロシア派の高宗により改革は阻止され失敗に終わりました。

甲申政変・甲午改革ともに身分制度の廃止を掲げましたが改革は失敗に終わり、朝鮮半島の厳しい身分制度は、日本が朝鮮半島保護国としていた1909年(明治42)まで続きます。

朝鮮統監府は、新戸籍制度を導入し、それまで姓を持たなかった賎民にも姓を許可し、学校に通うことも可能にしました。奴婢の売買も禁止しましたが、しばらくは両班による売買が行われていたようです。その後、1923年(大正12)に戸籍制度が改正され、戸籍に旧身分の記入がなくなり身分制度は完全に撤廃されました。

しかし、現在の韓国人も非常に強い階級意識差別意識を持っています。数年前までソウルで働く売春婦・家政婦といえば全羅道出身者でした。貧困と差別から逃れるため日本へ移住した人も多くいます。現在も全羅道済州島への偏見は強いものがあります。韓国では1970年代まで「作男」といわれる現代版の奴隷が存在がしていました。2014年には知的障害者を人身売買ブローカーが騙し全羅道にある曽島という島の塩田で奴隷として働かせている事件も起こっています(新安塩田奴隷労働事件)。

朝鮮半島身分制度を廃止したのは日本で、日韓併合前年の1909年(明治42)です。甲申政変・甲午改革ではありません。

 

日帝強占期にも人口は増えていった。人口調査がある程度行われた1910年代末に国内に居住する韓国人は1700万人程度だった。1930年には2000万人、1942年には2600万人ほどに増えた。

ここにも数字を少なくみせ、日本統治による人口増加を過小評価させる狙いがあるように感じます。

朝鮮半島の正確な人口調査は、それまで行われたことがありませんでした。日本が保護国としていた1906年(明治39)に日本の警察顧問の要請で最初の人口調査が行われ、人口は978万人でした。その後、1907年には11,67万人、併合後は1910年(明治43)13,12万人、1920年(大正9)17,26万人、1937年(昭和12)21,68万人、1940年(昭和15)22,95万人、1945年(昭和20)25,53万人と、人口は保護国からは約2.6倍、併合直後からは2倍に増加しています。平均寿命も23歳から56歳に伸びました。医療体制・衛生環境が向上したためです。

教科書では、1910年代末17,00万人→1930年 20,00万人→1942年 26,00万人と記述しています。

それを、1910年 13,12万人→1920年 17,26万人→1937年 21,68万人→1945年 25,53万人としたらどうでしょう。

韓国の教科書は、人口の急増が落ち着いた頃からを提示し、意図的に人口増加が2倍をきるようにしているようにみえます。生徒に人口の急増を隠すためと思われます。

 

景福宮、昌慶宮、慶煕宮のような伝統建築物はむやみに壊され、伍籍府、京城府庁舎、京城駅舎のような官公庁や公共施設、公園、学校などが相次いで建設され、ソウルの姿は次第に植民地都市の風景に変わっていった。

李王家の宮殿についても現在「日本が王の威厳を損なわせるために破壊した」「遊び場に変えた」など槍玉に挙げられる一つです。

しかし、それは経済力のついた現在の韓国人が主張しているだけであって、当時の朝鮮人(*当時は日本ですが、分かりやすいように朝鮮人とします)社会から反対の声、保護を求める声はあがっていません。寧ろ、日本人の美術評論家柳宗悦が光化門の保護を求めたというのが面白い話です。

 

李王家の宮殿は景福宮・徳寿宮・昌徳宮・昌慶宮・慶煕宮と5つありました。

日本は、1910(明治43)徳寿宮に李王世子李垠のための石造殿を建てました。設計はイギリス人技師ハデイングです。現在は大韓帝国博物館として使用されています。

1910年竣工 徳寿宮石造殿,現:大韓帝国博物館

1910年竣工 徳寿宮石造殿,現:大韓帝国博物館

石造殿の左側に映る石造殿別館は、1937年(昭和12)中村與資平の設計で建てられたものです。庭園の噴水は、1910年(明治43)石造殿が建てられた時に作られたもので設計は石造殿と同じくイギリス人技師ハデイングによるものです。現在は、徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)として使用されています。

左:徳寿宮石造殿別館(現:徳寿宮美術館(国立現代美術館別館))
右:徳寿宮石造殿(現:大韓帝国博物館)

大韓帝国博物館

徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)

日本お金かけ過ぎでしょ(笑)そら国会で「朝鮮にばかり投資し過ぎ!」て問題になりますよ(笑)

石造殿が韓国ドラマのロケ地に使用されるらしく日本人もよく訪れるようです。ただ残念なことに石造殿・石造殿別館を建てたのが日本だということを知らないようです。

韓国のガイドは「大韓帝国期に建てられた宮殿。日本に高宗が退位させられ〜不遇の一生を〜。日本の植民地時代は〜」とやっぱり否定的なアナウンスだけで、日本が建てたものだということは一切アナウンスしていないようです。まぁ韓国がする訳ないですよね(笑)訪れた日本人のブログを見ても「豪華な宮殿!大韓帝国って凄ーい!」「100年以上前の優雅で華麗な大韓帝国時代の皇室の名残り」とあるだけです…

建てたのは日本です!!!1910年(明治43)に日本が建てたものですよ!!!李王家の生活をバックアップしてたの日本ですよ!!!

 

即位した純宗は昌徳宮に移りました。それより約10年前の毒茶事件で脳・体に障碍をおっていた純宗を慰める目的で昌徳宮に隣接する昌慶宮内の宮門・塀を壊し1909年(明治42)に動物園・植物園を設置しました。昌慶宮は庭園として一般開放され、動物園・植物園は、月・木曜日は李王家が使用し、それ以外の曜日は一般に開放され人気を呼んだそうです。植物園は当時東洋最大の温室施設で、昌慶宮大温室として現存しています。

昌慶宮植物園(昌慶苑)、現:昌慶宮大温室

昌慶宮大温室

約270年再建されてこなかった景福宮は、高宗の実父、興宣大院君が1865年(慶応元年)に慶煕宮の主な殿閣を取り壊し景福宮の資材にあて再建しました。しかし、高宗がロシア大使館に逃げ込んで(露館播遷)以後は景福宮は宮殿として使用されませんでした。

 

慶煕宮は、興宣大院君が景福宮を再建する際の資材に使用するため主だった殿閣は取り壊されていました。日本は統治以後に残った施設を取り壊し、京城中学校など主に学校施設として使用しました。

 

日本が韓国の宮殿を取り壊したことは事実です。しかし、日本は朝鮮半島や中国とは違い前権力者を一族にわたり抹殺する、前権力の施設を徹底的に破壊するといったことはしません。日本が宮殿を取り壊したのは、京城(現:ソウル)を近代化都市へ作り変えるためのものでした。

現在でこそ文化財の保護、復元に取り組んでいる韓国ですが、日本が統治するまでの朝鮮半島文化財保護などの意識はなかったはずです。現在、韓国にあれば国宝第1号であったろう世界最古の金属活字本「直指心体要節」も、朝鮮は開国直後にフランス公使に売り払っています。日本は「朝鮮の宝だから売るのはやめた方がいい」と忠告をしましたが、価値の分からなかった朝鮮は安い値段でフランスに売り払ってしましました。

日本は朝鮮を保護国においた直後から朝鮮半島の古蹟調査を始めました。朝鮮の主要文化財を保護する目的で「朝鮮寶(宝)物古蹟名勝天然記念物保存令」を定めます。1933年(昭和8)には崇礼門(南大門)を宝物第1号に指定しています。日本は朝鮮半島文化財の保護に努めました。決して略奪するためではありません。

崇礼門は韓国建国後も朝鮮総督府を引き継ぎ国宝第1号に再指定しています。しかし2008年の放火で崇礼門は消失してしまいました。犯人の動機は腹いせ。21世紀になっても韓国人に文化財保護、国の宝といった意識はないのでしょうか。

 

彼ら日本人は本町(現忠武路)、明治町(現明洞)、黄金町(現乙支路)一帯を中心に日本人街をつくった。

明洞は「明」治村だったから明洞なんですよ(笑)

韓国の博物館・美術館には統治時代に朝鮮半島に住んでいた日本人実業家が世界中で買ってきたコレクションが展示してあるそうです。終戦時に身一つで引き揚げるしかなかったため貴重なコレクションも朝鮮半島に残さざるを得なかったのです。

韓国を旅行し韓国で見ている建築物や豪華なコレクション類、それって本当は日本人が建てた建築物、日本人のコレクションかも知れませんよ!