韓国の歴史教科書を批判する

韓国の主張する歴史、歴史教科書を批判します

日本が統治時代に建てた建物⑬(鎮海①)

鎮海は日本が統治時代に計画的に建設した都市である。南下政策をとるロシアが朝鮮半島不凍港をもつこと、朝鮮半島がロシアの影響化に置かれることは明治以降の日本にとり安全保障にかかわる脅威であった。朝鮮半島のロシアの影響力を取り払うために起こったのが日露戦争(1904年2月〜1905年9月)だ。ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海海戦では、東郷平八郎提督率いる連合艦隊は鎮海湾から出撃した。

日本は1898年(明治31)頃から鎮海湾の戦略的価値に注目し始め、朝鮮を併合した1910年(明治43)から鎮海を軍港と市街地の都市として建設していく。

鎮海大市街建設の現況

旧日本海軍は、日露戦争開戦直前には鎮海湾の巨済島に「仮根拠地防備隊」を設置し、12月に「鎮海湾防備隊」、1907年(明治40)に「鎮海防備隊」と改称する。1916年(大正5)4月1日には要港部に昇格し、1941年(昭和16)11月20日に日米開戦に備え、より権限の強い警備府に昇格する。

 

⬛︎鎮海要港部司令部(現:韓国海軍 鎮海基地司令部本館)

 

 

⬛︎鎮海防備隊司令部(現:韓国海軍 軍需司令部本館)

 

 

⬛︎鎮海防備隊司令部別館(現:韓国海軍 軍需司令部第2別館)

 

 

⬛︎海軍要港部病院(現:韓国海軍司令部広報室)

 

 

 

⬛︎鎮海要港部 修理工場(*現存するか不明)

 

 

⬛︎海軍下士官兵集会所(*現存するか不明)

 

 

⬛︎鎮海要塞司令部正門(*現存するか不明)

 

 

Googleマップで見ても現在の鎮海が日本が作った都市のままであることが分かる。

鎮海市街図(1912年(大正元)作成)

 

 

⬛︎中辻の大榎(現:現存しない)

朝鮮戦争の頃に枯れてしまったらしい

 



大榎があった中辻(現:中園ロータリー)の周りには「鎮海郵便局」「鎮海警察署」や三層の塔を持つ建物が建設された。

 

⬛︎鎮海郵便局(現:鎮海郵便局)

朝鮮総督府が1912年(明治45)に菊川町(現:鎮海市槿花洞)にあった民家を移築・改造したもの。南下政策をとるロシアは鎮海の隣の馬山に租界地をもち鎮海にも多くのロシア人が居住していた。郵便局の建物はそのロシア人の住居を移築したものと思われる

 

 

⬛︎鎮海警察署(現存しない)

 

 

⬛︎不明(現:セスヤン会館)

三層の塔は征矢川(現:余佐川)沿いに2棟建設されていた。用途は不明であるが医院として使われていたこともある。現在は南側の中国風の建物だけが残っている

写真上段2枚が北側の塔

 

 

⬛︎鎮海駅舎(現:鎮海駅)

1921年(大正10)着工、1926年(大正15)開業

 

 

現在、鎮海は桜の名所として知られる。しかし、鎮海に桜を植樹し鎮海を桜の名所としたのは旧日本海軍である。桜は旧日本海軍(現:海上自衛隊)のシンボルである。

鎮海の桜

警察署の桜

橘通り(現:中園路)

併合以前の朝鮮の山々は禿山であった。朝鮮には植林技術がなく、また木をオンドルに使用するため無計画に伐採していたためだ。併合後、朝鮮総督府の植樹造林事業によって朝鮮から禿山はなくなり、それは現在の韓国にも引き継がれている。

鎮海では旧日本海軍によって約11万本の桜の木が植えられた。1920年代半ばには桜の名所として知られるようになり、花見の季節には臨時列車まで運行されていた。当時、鎮海には多くの日本人が居住しており、日本人が花見弁当を持ち寄り鎮海の桜で花見をしていた。それを真似たのが朝鮮人である。現在、韓国に花見文化や弁当文化が根付いたのはこの頃の日本人を真似ただけだ。朝鮮人(現在の韓国人も同様)は弁当のような冷や飯は好まないし、貧困に喘いでいた李氏朝鮮の非支配層階級に桜を愛でる文化・余裕など生まれるはずがない。

戦後に鎮海の桜は日帝残滓清算を理由に「全て」伐採したという。これは嘘である。オンドルなどの生活燃料に利用するため伐採したのであろう。そして残った桜は毎度お馴染みの韓国起源説「鎮海の桜は済州島原産の『王桜』だった」と主張することで、伐採しない言い訳、辻褄合わせをしたのだろう。1960年代には朝鮮戦争で荒廃した祖国の発展を願った在日や日本人から約6万株の桜の苗木が寄贈されている。1970年代には朴正煕元大統領が「桜の大植樹運動」を展開し、日本から多くのソメイヨシノが輸出された。

戦前・戦後、現在韓国は日本が作った国と言っても過言ではない。言葉や文化・社会システムなど、ありとあらゆるものが日本のコピーに過ぎない。いい加減、日帝残滓精算など不可能なことに気づき、素直になった方が気も楽になるだろうにっと思う(笑)