歴史繚乱ブログ

元禄事件(忠臣蔵)の考察、史跡廻りなど

韓国の歴史教科書「近現代史(文化①)日帝による侵略」

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(略)

 

 開港以後、西洋科学技術に対する関心が高まると、電気、鉄道のような近代技術や西洋医術など各種近代文物が入ってきた。近代施設は日常生活を便利にしたが、列強の侵略目的に利用されたりした。

 日帝は国権を奪取した後、同化と差別の二重政策を基礎に、皇国臣民化を強力に推し進めた。特に、わが民族の独立の意思を折ろうとわが国の歴史と文化を歪曲した。これに対抗してわが国の伝統と文化を守り抜こうとする動きが起きた。

 光復以後は学問活動が急速になり、教育の機会が大きく広がった。

 

(略)

 

近代文物の受け入れと発展

西洋科学技術の受け入れ

 17世紀以後、実学者は清を通して知るようになった西洋科学技術を受けれることを主張した。通商修交拒否政策をとった興宣大院君も、西洋の武器製造技術に関しては大きな関心を寄せた。

 開港以後、開化派の人々は富国強兵を通した近代化をなし遂げるために、西洋の科学技術を積極的に受け入れようと主張した。政府も東道西器論を掲げ、西洋の科学技術を積極的に受け入れようとした。

 近代制度や技術を導入しようと朝士視察団や領選使をそれぞれ日本と情に派遣し、外国技術者も招聘した。このような開化政策によって博文局では新聞を発刊し、機器廠では西洋武器を製造し、典圜局では新しい貨幣を鋳造した。

 開港以後、通信、交通、電気、医療、建築分野で近代施設が導入された。電信が設置され、国際電信網が連結し、宮廷や上流社会には電話も普及した。文明の火である電灯が景福宮の夜を照らし、発電所が建設され、電車が通るようになり、ソウル市内の一部に電気が入ってきた。鉄道は京仁線が開通した後、露日戦争中に日本の軍事的必要によって京釜線京義線が敷設された。西洋医学が普及し、近代医療施設の光恵園をはじめ、多くの病院が開かれ、洋式建築物の明洞聖堂と徳寿宮石造殿などが建てられた。

 このような西洋文物の導入は国民の生活を便利にする利点もあったが、技術と管理を外国人に依存したので国家財政にかなりの負担となった。また、開化派が富国強兵の理論として受け入れた社会進化論は、愛国啓蒙活動家によって実力養成論の根拠となったが、日本の帝国主義侵略を正当化することにもなった。

 

社会進化論

大緯帝国末期の愛国啓蒙活動家によって積極的に受け入れられた西洋の学問や思想の中でも、社会進化論は知識層に広まった。

本来社会進化論ダーウィンが主張した生物学的進化論を人間社会や国際関係に適用した社会理論で、イギリスのスペンサーなどが主張した。この理論は弱肉強食と適者生存の国際社会において帝国主義列強の弱小国支配を正当化する論理として利用された。ところが、愛国啓蒙活動家はわが国が生存競争で生き残るには実力を養わなければならないという論理的根拠として社会進化論を受け入れたが日帝大韓帝国侵略を正当化する口実を提供するなど、否定的影響を及ぼした。

 

(略)

 

申采浩は『大韓毎日新報』に「読史新論」を連載して日本の植民史観に対抗できる民族主義史学の踏み台を築いた。

 

(略)

 

『大韓毎日新報』とベッセル

ベッセルは1904年に露日戦争が起きると、『ロンドン・デイリ・ニュース』の特派員として来韓して梁起鐸ととも『大韓毎日申報』を創刊した。『大韓毎日新報』は乙巳条約の無効を主張し、高宗の親言を掲載するなど抗日言論活動を活発に展開した.また、1907年に国債報償運動が起きると、これを積極的に応援した。日帝が弾圧しても『大韓毎日新報』が抗日運動をくり広げることができたのは、イギリス人ベッセルが社長だったからだった。

これに、統監府は1900年5月にイギリス上海高等裁判所にベッセル提訴して3週間の禁固生活をさせた。ベッセルはソウルに来た後も抗日言論活動をくり広げ、l909年5月1 日に心臓病で病死して、ソウル楊花津外国人墓地に葬られた。

 

言論機関の発達

 開港以後、近代印刷技術で刊行された各種新聞や出版物は、開化思想や愛国啓蒙思想を伝えるのに大きな役割を果たした。

 わが国最初の新聞は、1883年博文局で刊行した『漢城旬報』であった。『漢城旬報』は国内の情報とともに西洋の新文化を紹介するのに大きな役割を果たしたが、甲申政変の失敗で廃刊となった。

 1896年に徐載弼が創刊した『独立新聞』は大衆を啓蒙して、近代化を促進しようとするハングル版と、外国人にわが国の状況を広報する英文版で発行された。

 国漢文混用体を使用した『皇城新聞』は、張志淵の「是日也放声大哭」を載せて乙巳条約を批判し、民族意識を鼓吹した。ハングル普及に大きく寄与した『大韓毎日申報』は日帝の荒地開墾権要求反対運動、国債報償運動などを主導した。

 この他に、ハングル新聞の『帝国新聞』、国漢文日刊紙の天道教の『万歳報』なども国権回復運動を支援し、民族意識を率先して高めようとした。

 日帝反日報道を遮断するために新聞に対する事前検閲を試み、1907年に新聞紙法をつくって自主独立を要求していた民族言論を弾圧した。

 

(略)

 

 東学は第3代教祖の孫秉熙のとき親日勢力を追い出し、天道教に改編し、新たな発展をなし遂げた。そして、檀君信仰を基盤に大倧教が創始され、抗日運動に積極的に参加した。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

>特に、わが民族の独立の意思を折ろうとわが国の歴史と文化を歪曲した。

現在、韓国に残る文化財の多くは日本統治時代に日本人が発掘、調査、修復、保護保存したものです。日本が統治するまでの朝鮮半島には文化財保護の意識はなく、特に仏教は李氏朝鮮時代に徹底的に弾圧されたため寺院や仏像は荒廃していました(*僧侶は奴婢・白丁と同じ賎民身分)。朝鮮総督府は古蹟調査事業に着手し、文化財保護の総督令、国宝の指定など朝鮮半島文化財保護に努めました。

現在韓国が指定している国宝や世界遺産、観光資源になっている文化財の多くは日本が統治時代に調査、修復し保護したものです。

韓国の国宝で世界遺産でもある仏国寺ですが、併合直後の仏国寺は廃寺で紫霞門左右の行廊が倒壊し石壇も埋もれている状態でした。1924年(大正13)〜1925年(大正14)朝鮮総督府が極楽殿の再建をはじめ石壇・行廊などを修復しました。

世界遺産登録されている仏国寺の案内版には、

「仏国寺の大伽藍は新羅時代に建てられたが新羅が滅んだ後も高麗や李氏朝鮮の時代を通じ何度も改修され保存されましたが、1593年の壬申乱(*文禄の役)によって全焼してしまった。その後に一部が再建された。全焼された後に一部が再建されたが1969年から発掘調査をし改修して世界遺産に登録した」

と書かれているそうです。結論からいえば仏国寺は文禄の役より以前に既に廃寺でした。ですので日本が全焼させたということはありえません。廃寺後、朽ちるに任せてほったらかしにしていたものと思われます。また統治時代に日本が再建修復工事をしたことは書かれていません。教科書だけじゃなく都合の悪いところはやはり全カットのようです(笑)

やっぱり韓国ですね。世界中の人が読む案内版にも嘘と隠蔽を加えるんですね。日本人だけでも騙されませんように。

日韓併合直後の仏国寺

日韓併合直後の仏国寺

日韓併合直後の仏国寺

日本による修復後の仏国寺

再建後の極楽殿

現在の仏国寺

 

仏国寺とともに世界遺産登録されている石窟庵も朝鮮総督府が修復工事をした文化財の一つです。石窟庵は1909年(明治42)に日本人の郵便配達員が偶然発見した石窟です。発見当時は、石仏の天蓋は崩落し石仏に直接雨があたり、石窟庵の半分近くが土に埋もれている状態でした。時の寺内正毅総督が「その大破せぬ前に是非今年は修覆を加えたい」という言葉とともに朝鮮総督府は6,500円の予算を計上(*現在価値で約3,300万円)。但し、修復工事は1回では済まず3回に及んだそうです(*コレ全て日本人の税金からです!)

しかし、戦後の韓国による2度の杜撰な修復工事で現在は発見当時とは違う仏像の配置・カビの発生・配置する場所が分からなくなり展示されている石など問題があるようです。なんでも韓国ではそれを統治時代の日本の修復工事のせいだと主張している学者もいるようです…。

現在韓国が世界遺産・国宝だと胸を張っている文化財。石窟庵にしろ日本が朝鮮半島に郵便制度を導入し、郵便配達員が日本人じゃなかったら今頃は崩壊し国宝にも世界遺産にも登録されることは出来なかったかも知れませんね。

発見直後の石窟庵

発見直後の石窟庵

発見直後の石窟庵

朝鮮総督府による修復中の石窟庵

朝鮮総督府による修復中の石窟庵

修復完成後

修復完成後

 

>開港以後、通信、交通、電気、医療、建築分野で近代施設が導入された。電信が設置され、国際電信網が連結し、宮廷や上流社会には電話も普及した。文明の火である電灯が景福宮の夜を照らし、発電所が建設され、電車が通るようになり、ソウル市内の一部に電気が入ってきた。鉄道は京仁線が開通した後、露日戦争中に日本の軍事的必要によって京釜線京義線が敷設された。

通信・交通・医療・建築分野、コレ全て日本です!電気だけアメリカです(笑)

P338掲載の「郵便総局」、日本は1899年(明治32)の京仁線開通より23年前の1876年(明治9)に釜山に郵便局を開設しています。その後、1896年(明治29)に日本と同じ郵便制度を導入し、この郵便制度は現在の韓国にも引き継がれています。ちなみに、韓国が現在使っている住所も、朝鮮総督府が1910年(明治43)に始めた「土地調査事業」で確定させた住所です。韓国左派が繰り返し唱える日帝残滓清算。出来るもんならやってみろ!と言ってやりたいです(笑)

 

>洋式建築物の明洞聖堂と徳寿宮石造殿などが建てられた。

徳寿宮石造殿、現在の大韓帝国博物館です。これも日本が1910(明治43)イギリス人技師ハデイングに設計を依頼し、李王世子李垠のために建てた宮殿です。古写真の左に映る宮殿は石造殿別館で、現在は徳寿宮美術館(国立現代美術館別館)として使用されています。

左:徳寿宮石造殿別館(現:徳寿宮美術館(国立現代美術館別館))
右:徳寿宮石造殿(現:大韓帝国博物館)

 

開化政策によって博文局では新聞を発刊し

開港以後、近代印刷技術で刊行された各種新聞や出版物は、開化思想や愛国啓蒙思想を伝えるのに大きな役割を果たした。

>わが国最初の新聞は、1883年博文局で刊行した『漢城旬報』であった。

朝鮮最初の近代新聞『漢城旬報』の発刊を提案したのは福澤諭吉です。福澤の「朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠である」という信念によるものです。『漢城旬報』の発刊には、福澤門下の井上角五郎ら日本人編集者・印刷工があたり、福沢が築地活版所で作らせておいたハングル活字を持ち朝鮮へ渡り『漢城旬報』創刊に至ります。

 

ハングル普及に大きく寄与した『大韓毎日申報』は日帝の荒地開墾権要求反対運動、国債報償運動などを主導した。

ハングルを普及させたのも日本人です!

朝鮮総督府の調査で1910年(明治43)の朝鮮での識字率はナント6%です!朝鮮では宗主国である中国の漢字のみが尊重され、15世紀に李氏朝鮮4代国王、世宗が創製したハングルは浸透せず忘れ去られた文字になっていました。

そのハングルに目をつけたのが福澤諭吉です。「朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠である」という信念から、庶民にも習得が簡単なハングルの普及を目指しハングルの改良に取り掛かります。

表音文字であるハングルは方言のイントネーションにより文字が変わります。そのため井上角五郎らは先ず標準語を定め、修飾語など曖昧な文法の改良に取り組みます。文字であるハングルも世宗が創製したハングルをより庶民が理解しやすい、使いやすいように改良しました。現在の韓国人・北朝鮮人が使用している文法・ハングルはこの時、井上らが改良したものです。

改良されたハングルと漢字を織り交ぜ創刊されたのが『漢城旬報』を引き継いだ『漢城周報』です。これがハングル活字を使用した最初の印刷物です。

1911年(明治44)朝鮮総督府は朝鮮教育令を公布し、内地日本とほぼ同数の学校教育制度を導入しました。授業に朝鮮語を設けハングルの普及、識字率の向上に努めました。

現在の韓国人・北朝鮮人が使用しているハングルは日本が改良し普及させたものです。また韓国語・朝鮮語の半分は日本語です。日本語を朝鮮読みしているだけです。文法が似ているといわれるのは井上らが改良したためです。日本人が韓国語を習得するのが楽だといわれるのはそのためです。