韓国の歴史教科書を批判する

韓国の主張する歴史、歴史教科書を批判します

韓国の歴史教科書「近現代史(文化②)民族抹殺政策」

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日帝の植民地文化政策国学運動の展開

日帝の民族抹殺政策

 日帝は植民統治を合理化し、支配を円滑にするために皇国臣民化政策による愚民化教育を実施した。日帝の隠れた意図は、わが国の固有の文化を抹殺して日本に同化させることにあった。

 日帝は国権強奪後、朝鮮教育令をつくって植民地国民として守るべき義務を強調し、低水準の実業教育を通して植民地工業化に必要な労働力を確保しようとした。

 3・I運動以後、日帝は韓国人の反日感情を揉み消すために教育制度を変えた。朝鮮語を必修科目と規定し、京城帝国大学も設立した。表向き日本人教育と対等に見られるようにしたが、実質的には教育差別は以前と同じだった。

 1930年代の満州侵略以後は、韓国人を侵略戦争の協力者にしようとする教育がさらに強化された。内鮮一体と日鮮同祖論を強調して朝鮮語教育を廃止し、韓国史歪曲を深化させた。

 言論分野にも植民地統治政策がそのまま反映された。1910年代には総督府機関紙である『毎日申報』を除くほとんどの新聞を強制廃刊させて民族言論を弾圧した。3・I運動以後は文化統治の一環として、1920年に『朝鮮日報』『東亜日報』『時事新聞』の日刊紙と一部雑誌の発行を許可した。しかし総督府は新聞記事の統制を継続したうえ、1940年に『朝鮮日報』や『東亜日報』まで廃刊にした。

 日帝は侵略と植民支配を正当化する目的でわが国の歴史を徹底的に歪曲したり、抹殺しようとした。日帝は他律性、〔皇国臣民としての〕アイデンテイティー、党派性を主張する植民主義史観を前面に出し、韓国史の自衛性と独創性を否定した。特に、総督府が設置した朝鮮史編集会は植民主義史覇を土台に朝鮮史を編纂し、韓国史歪曲を率先して行った。

 宗教活動もやはり総督府の徹底した弾圧を受けた。独立活動家が民族精神を強調する宗教団体に加入して独立運動を展開することが多かったからである。日帝は1930年代後半以後、大陸侵略を本格化させると、神社参拝を強要し、これに抵抗する宗教教団やその指導者を迫害した。

 

日帝の教育政策

同化と差別の二つの基準で植民地教育を実施して、従順な植民地人間型をつくろうとした。

 

国語研究とハングルの普及

 3・I運動以後任暻宰、張志暎などの主導で朝鮮語研究会が創立され(1921)、国語研究が本格化した。彼らはハングル研究とともに講習会を開いてハングルの普及に努めた。また、ハングルの記念日である「カギャの日」を制定して韓国語の使用を推奨し、『ハングル』という雑誌を刊行してハングルの大衆化に貢献した。

 1931年に朝鮮語研究会が朝鮮語学会に拡大改編され、さらに活発なハングル普及活動が展開された。朝鮮語学会の最大の成果は、ハングル正書法統一案と標準語の制定だった。これを基礎に朝鮮語学会は『韓国語大辟典』を編纂しようとしたが、日帝の妨害で中断させられてしまった。

 日帝朝鮮語学会を独立運動団体とみなして関連した人々を逮捕し、学会を強制的に解散させた。これを朝鮮語学会事件(1942)という。

 

国史研究の発展

 わが国の歴史学者たちは日帝の植民主義史学に対抗して民族史を守護し、民族の独立を達成するために努力した。その過程でさまざまな歴史研究方法論が体系化され、民族主義史学、社会経済史学、実証主義史学が台頭した。

 民族主義史学者は韓国史の発展主体がわが民族であることを強調し、植民主義史学の虚構性を明らかにすることに力を傾けた。

 朴殷植は大韓民国臨時政府に参加し、『韓国痛史』と『韓国独立運動之血史』を著して日帝の不法な侵略を糾弾した。申采浩は『朝鮮上古史』と『朝鮮史研究草』を記してわが古代文化の優秀性と独自性を強調し、植民史観を批判した。鄭寅普は申采浩の民族主義史観を継承し、その他に文一平、安在鴻、南宮億なども民族の自主性と独創性に光を当て、日帝の植民主義史観を批判した。

 1930年代には白南雲などによって社会経済史学が台頭した。彼らは韓国史が世界史の普遍的発展法則に立脚して発展してきたことを強調し、植民主義史観の停滞性理論に反駁した。

 韓国の学者がつくった国学研究団体である震檀学会を中心に、実証主義史学も発達した。震檀学会は『震檀学報』を発刊し、個別的な事実を客観的に明らかにしようとする学術活動をくり広げた。

 この他に、孫晋泰などによる民俗学研究も活気を帯び、全瑩弼はわが国の文化財の保存と国外流出防止に力を入れた。

 

民族教育振興運動

 日帝の弾圧にもかかわらず、植民地教育に対抗して民族教育振興運動が起き、「朝鮮人本位の教育」が試みられた。

 1920年代には朝鮮女子教育会と朝鮮教育会が創立され、教育啓蒙活動を展開した。社会の指導層の人々は国民を対象とした募金活動を通して最高教育機関の大学を建てようという運動も起こしたが、日帝の弾圧によって成功しなかった。

 大韓帝国期以来、民族教育機関として私立学校、改良書堂などが重要な役割を果たした。しかし日帝の弾圧によってそれらの数は次第に減り、1920年代以後は夜学が民族教育に貢献した。夜学は日帝の植民地教育機関とは異なり、私たちの文字と言葉、歴史を教育して抗日愛国思想を吹き込んだ。しかし満州事変以後、民族抹殺政策が行われ、夜学と改良書堂など民族教育機関は活動が衰退した。

 一方、日帝の教育政策は植民地統治に必要な低水準の実業人材をつくることに主眼を置いていたので、わが民族は先進近代科学技術を習得できなかった。

 このような状況でも、1924年に発明学会が創設されて『科学朝鮮』を刊行し、科学の日を制定して継続的に科学知識を普及させた。このような科学振興運動はわが民族に科学技術振興の必要性を呼び覚ますことに貢献した。

 

宗教活動

 日帝の弾圧の中でも3.1運動に参加した宗教団体はさまざまな民族運動や社会運動を持続的に展開した。

 3・I運動を主導した天道教は、雑誌を発刊するなど文化運動を標榜した民族運動を着実に展開した。民族主義的性格の強い大倧教は日帝の激しい弾圧を避け、根拠地を満州に移動して民族教育運動を展開しただけでなく、重光団や北路軍政署軍を結成して抗日武装闘争をくり広げた。

 プロテスタントは1930年代に日帝の神社参拝強要を拒否して多くの信者が投獄されたり、学校が閉鎖されたりした。カトリックは民衆啓蒙運動に力を注ぎ、一部信者は満州武装抗日運動団体である義民団を組織して活動した。

 仏教は総督府の干渉に対抗して、朝鮮仏教維新会を中心に仏教界浄化運動や抗日運動を展開した。一方、円仏教は仏教の生活化と現代化を主張し、民族の自立精神鼓吹と新生活運動を展開した。

 

文学と芸術活動

 日帝強占期の文学や芸術は、日帝に国を奪われた民族的自尊心を回復し、封建のくびきから抜け出さなければならない時代的課題を持っていた。

 1910年代の文学界には、李光洙などの活動によって近代文学の基礎が築かれた。3・I運動以後は同人誌を中心に芸術性だけを追求し、現実の問題については消極的で、逃避的な傾向が現れたりした。一方、同人活動に影響を受けない金素月は、民族の情緒を基礎に時代意識を反映させた。韓龍雲もやはり抗日運動の民族主義路線を鮮明に表現した。

 1920代半ば以後、社会主義の影響下に植民地の現実を告発し、階級意識を鼓吹することを重視する新傾向派文学が登場した。これに反発して芸俯性と作品性を強調する純粋文学の傾向も台頭した。

 大陸侵略以後、日帝はわが国の文学活動を本格的に弾圧し、軍国主義称賛を強要した。一部の文人日帝に協力する姿を見せたが、李陸史、尹東柱のような抵抗詩人の活動も活発だった。

 音楽界では洪蘭坡や玄済明などの作品がわが民族の情緒に合っており、多くの人に愛された。一方、国外で活動していた安益泰は愛国歌の合唱を入れた「韓国幻想曲」を作曲してわが民族の独立の意志を表現した。

 美術界では伝統絵画の創造的発展が行われ、西洋式油絵が新しい美術ジャンルとして定着した。日帝の収奪を批判する風刺画も登場した。

 演劇界では3・I運動以後、近代演劇が導入され、劇芸術研究会を中心に民族的悲劇を舞台芸術化した。しかし中日戦争以後、日帝の弾圧と強要によって日帝軍国主義を称賛する演劇しか公演できなかった。

 映画界では羅雲奎が強烈な民族意識を反映した映画をつくった。彼がつくった『アリラン』(1926)は日帝強占期の民族の苦しみを描いた作品である。

 1930年代以後、日帝は巧妙な手段と方法によって芸術活動を統制し、弾圧した。このとき、一部の芸術家が変節して親日活動を展開したことは、光復後芸術界が克服しなければならない課題となった。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

日帝の民族抹殺政策

日帝は植民統治を合理化し、支配を円滑にするために皇国臣民化政策による愚民化教育を実施した。日帝の隠れた意図は、わが国の固有の文化を抹殺して日本に同化させることにあった。

同化と差別の二つの基準で植民地教育を実施して、従順な植民地人間型をつくろうとした。

日帝の教育政策は植民地統治に必要な低水準の実業人材をつくることに主眼を置いていた。

日帝は侵略と植民支配を正当化する目的でわが国の歴史を徹底的に歪曲したり、抹殺しようとした。日帝は他律性、〔皇国臣民としての〕アイデンテイティー、党派性を主張する植民主義史観を前面に出し、韓国史の自衛性と独創性を否定した。特に、総督府が設置した朝鮮史編集会は植民主義史覇を土台に朝鮮史を編纂し、韓国史歪曲を率先して行った。

酷いな日帝!(笑)それにしても「民族抹殺政策」とは言い過ぎやろ…。

現在の韓国、韓国の歴史教科書では「日帝強占期」というようです。但しコレ、北朝鮮からの輸入ものです。左派(=従北・反米・超々々反日!)色の非常に強い教科書となっております(笑)。史実など関係なし!朝鮮民族朝鮮民族による朝鮮民族の正しい歴史です!

 

日帝の教育政策は植民地統治に必要な低水準の実業人材をつくることに主眼を置いていた

日帝は植民統治を合理化し、支配を円滑にするために皇国臣民化政策による愚民化教育を実施した

日帝は国権強奪後、朝鮮教育令をつくって植民地国民として守るべき義務を強調し、低水準の実業教育を通して植民地工業化に必要な労働力を確保しようとした

>1930年代の満州侵略以後は、韓国人を侵略戦争の協力者にしようとする教育がさらに強化された。

同化と差別の二つの基準で植民地教育を実施して、従順な植民地人間型をつくろうとした

日本というか伊藤博文です。伊藤は1905年(明治38)朝鮮の教育制度の改革に着手します。日本銀行から500万円の借款をし、その50万円を朝鮮の教育振興の資金に充て官立漢城高等女学校・農商工学校を設立しました。

日本が保護国とする以前の朝鮮には、朝鮮政府が設立した小中学校・その他2〜3種の専門学校がありましたが、中学校・専門学校は漢城(現:ソウル)にあるのみで女子の入学は認められていませんでした。教育の向上はあまりなかったようです。というのも朝鮮では儒学以外を教えられる教師がおらず、実学を軽んじていたため近代的な教育機関としては機能しなかったようです。その他の教育機関としては、外国人宣教師が布教のために設立した私学校、李氏朝鮮から続く書堂と呼ばれる私塾がありました。書堂は、両班である上級身分の子弟のみが通える私塾で漢籍素読や習字を教えていました。

圧倒的に教育水準が低かった朝鮮の識字率は、朝鮮総督府1910年(明治43)に実施した調査ではナント6%です。

李氏朝鮮時代の書堂

併合後の1911年(明治44)、朝鮮総督府は「朝鮮教育令」を公布、内地日本とほぼ同等の学校制度を導入します。普通学校の入学資格を8歳以上の男女とし、普通学校(4年修学)→高等普通学校(4年修学)→女子高等普通学校・普通学校の卒業生が通う実業学校(2〜3年修学)を基本とする学制に定めました。併合後10年間は朝鮮人(*当時は日本人ですが分かりやすように朝鮮人とします)の所得税を全額免除としたのと同様、普通学校の教育費を朝鮮人は10%負担としました。残り90%は日本人負担です。

1922年(大正11)の「第二次朝鮮教育令」では、普通学校の入学資格を6歳以上とし、修業年限を、普通学校6年、高等普通学校・女子高等普通学校5年に改制します。1924年(大正13)には京城(現:ソウル)に旧帝国大学では6番目となる京城帝国大学(現:ソウル大学)が設立されます。ちなみに大阪帝国大学は8番目(1931年設立)、名古屋帝国大学は9番目(1939年設立)と京城帝国大学より遅い設立です。

京城帝国大学(現:ソウル大学

1面(*面は日本の村にあたります)1校を掲げていた朝鮮総督府は、1936年(昭和11)に1面1校を完成させ、翌年からは1面2校の整備に取りかかり1942年(昭和17)年に完成させます。1943年(昭和18)から4年計画で義務教育を完成させる計画でしたが終戦によって実現はしませんでした。

小学校の数は1910年(明治43)301校であったのが、1943年(昭和18)には4,271校に増えています。小学校から京城帝国大学、各種の近代的な教育機関を合わせると日本統治時代に朝鮮では6,533校の学校が設立され、延べ220万1,098人の児童・生徒・学生が学んだことになります(*徳田克著『韓国の歴史を直視する』より参照)

上:全州高等普通学校・新義州公立普通学校
下:平壌中学校・仁川公立尋常小学校

統治時代の大邱医学専門学校(現:慶北大学校医学部本館)

慶北大学校医学部本館

日中戦争後の1938年(昭和13)「第三次朝鮮教育令」により朝鮮語は必修科目から外されました。但し、必修から外れただけで、実際は朝鮮語の授業を続ける学校もありました。↓は1939年(昭和14)朝鮮総督府発行の小学校の教科書です。ちなみに値段は10銭です。必修から外れても教科書も作られていたんですね。

1939年朝鮮総督府発行『初等朝鮮語読本』(*小学校の教科書)

1939年朝鮮総督府発行『初等朝鮮語読本』(*小学校の教科書)

こちらは1939年(昭和14)発行の小学5年生用の参考書です。「一番正しい予習及び復習のお友達」発行元は京城鍾路の姜さんです!今でいうところのドリルでしょうか。

1939年発行、小学5年生用の参考書

1944年(昭和19)には、小学校の就学率が男子90%・女子70%となり、併合時6%だった識字率は50%を超えました。

1941年(昭和16)の調査で日本語を「普通会話ができる」「やや解する」と答えた朝鮮人は16%です。言い換えれば84%の朝鮮人は日本語を理解出来なかった、話せなかったということです。日本は日本語の普及を政策課題にしていましたが、実際には徹底はされておらず朝鮮で日本語が浸透していなかったことが分かります。

韓国人は日本が「朝鮮語を奪った」「ハングルを奪った」「日本語を強制した」と主張しますが、これで朝鮮語を奪った、日本語を強制したといえるのでしょうか。

 

>彼らはハングル研究とともに講習会を開いてハングルの普及に努めた。

朝鮮語学会の最大の成果は、ハングル正書法統一案と標準語の制定だった。これを基礎に朝鮮語学会は『韓国語大辟典』を編纂しようとしたが、日帝の妨害で中断させられてしまった。

井上角五郎が中心となり標準語を定めハングルを現在の形に完成させました。それを受け1912年(明治45)朝鮮総督府朝鮮語正書法である普通学校用諺文綴字法を作成、1930年(昭和5)には新正書法である諺文綴字法を作成しました。1931年(昭和6)に創設された朝鮮語学会のハングル正書法統一案は、井上角五郎・朝鮮総督府が行ってきた事業を継承したものです。ハングルを普及させたのは先ずハングルを改良した井上角五郎、学校教育を通じ朝鮮人にハングルを学ばせた朝鮮総督府の功績が大きいと思われます。

また韓国語の辞典については朝鮮総督府1920年(大正9)に『朝鮮語辞典』を発行しています。5年後の1925年(大正14)には京城師範学校の教師、沈宜鱗が『普通学校朝鮮語辞典』を発行しています。朝鮮語辞典は以後、何度も発行されています。

 

朝鮮語学会は『韓国語大辟典』を編纂しようとしたが、日帝の妨害で中断させられてしまった。

日帝朝鮮語学会を独立運動団体とみなして関連した人々を逮捕し、学会を強制的に解散させた。これを朝鮮語学会事件(1942)という。

民族主義的性格の強い大倧教は日帝の激しい弾圧を避け、根拠地を満州に移動して民族教育運動を展開しただけでなく、重光団や北路軍政署軍を結成して抗日武装闘争をくり広げた。

朝鮮語学会には大倧教(*大倧教は民族主義的傾向の強い新興宗教団体です。朝鮮総督府の監視と弾圧から逃れるため本部を満州に移し、満州独立運動・抗日運動を展開しました)信者が多く民族主義的傾向の強い団体でした。朝鮮総督府が辞典の編集作業を中断させたのも治安維持の観点からです。朝鮮語学会事件(1942年)も満州治安維持法で検挙された大倧教と連動して行われたものです。

 

>朴殷植は大韓民国臨時政府に参加し、『韓国痛史』と『韓国独立運動之血史』を著して日帝の不法な侵略を糾弾した。

朴殷植は民族主義活動家で、『韓国独立運動之血史』は1920年(大正9)亡命先の上海で朝鮮人民族意識鼓舞のために書かれた非常に政治色の強い著述です。3.1運動についても伝聞を元に書かれているため史実とは乖離しています。

 

>宗教活動もやはり総督府の徹底した弾圧を受けた。

日帝の弾圧の中でも3.1運動に参加した宗教団体は(略)

3.1運動は3団体33人の宗教家が独立宣言を読み上げたことを発端に起こった学生らによるデモです。3団体とは天道教キリスト教・仏教です。↓の古写真は統治時代の天道教中央大教堂、カトリックプロテスタントそれぞれの教会です。弾圧されていた割には威風堂々たる建物です。

統治時代の天道教中央大教堂

現代の天道教中央大教堂

統治時代の明洞大聖堂

現代の明洞大聖堂

統治時代の貞洞教会

現在の貞洞教会

 

>1910年代の文学界には、李光洙などの活動によって近代文学の基礎が築かれた。

朝鮮近代文学の祖といわれる李光洙朝鮮人にとっては偉大なはずの彼ですが、李光洙朝鮮戦争中に朝鮮人民軍に拉致され北朝鮮で非業の死を遂げています。相変わらず天才や偉人を朝鮮人自らが葬るという朝鮮人の伝統がここでも発揮されています。