日本が統治時代に建てた建物㉒(釜山⑦)
⬛︎釜山鉄道病院(*現存しない)
1901年(明治34)「京釜鉄道株式会社」設立時に設置した「草梁鉄道医務室」を前身に、1906年(明治39)7月1日、朝鮮統監府鉄道局が買収し統監府直営の「釜山鉄道病院」となる
大正時代の木造の病院
患者待合室
1923年(大正12)には最新の医療設備を備えた洋館2階建ての病院となる
戦前の朝鮮半島にも勿論、救急車はありました。こちらは京城(現:ソウル)管内を運行していた救急車
⬛︎釜山府立病院(*現存しない)
釜山の日本人居留地にあった小さな医療院を1876年(明治9)「官立済生医院」とし開院する。その後、数回の改称・移転をし1914年(大正3)4月「釜山府立病院」となる。朝鮮戦争では陸軍病院として使用される
⬛︎伏兵山配水池(*現存する)
釜山開港後、増加する日本人居留民の水道水確保のため「釜山居留地民団」が上水道施設工事に着手(1894(明治27))、その第3期工事として「伏兵山配水池」を建設する(1907年(明治40))。しかし「伏兵山配水池」「遠高見水源地」だけでは需要が賄えず、1906年(明治39)「聖知谷水源地」が建設される
「伏兵山水源地」のある「伏兵山公園」は桜の名所でもあった
「聖知谷水源地」(*現在する)
乱伐で禿山となっていた朝鮮の山々の水源地を守るため日本人の手によって植樹と保林が行われ、聖知谷だけでも記録によると2,539,600本の植林が行われた。現在は、自然散策できる観光名所となっている
1921年(大正10)5月6日、朝鮮における水産業の指導奨励のための試験、及び調査を行う機関として設置される。1934年(昭和9)時点で、釜山本場・鎮海養魚場・海苔作業地・試験船三隻を有していた
⬛︎釜山高等水産学校→釜山水産専門学校(現:水産大学校(日本),釜慶大学校(韓国))
朝鮮半島の水産業発展のために内地函館に次ぎ設立された水産専門学校
⬛︎海水産組合(*現存しない)
⬛︎釜山無線電信局(現:釜山無線電話局影島送信所)
1927年(昭和2)6月1日設置
⬛︎三中井(みなかい)百貨店釜山支店(*現存しない)
三中井百貨店釜山支店は釜山で最初のエレベーターが付いた建物であった
釜山の街並み
本町通り(現:中区東光洞)
弁天町二丁目(現:中区光復洞2街)
長手通り(現:中区光復洞1街)
「釜山共同墓地より居留地を望む」
日本人共同墓地(現:嵯嵋洞碑石文化村)
釜山には「嵯嵋洞碑石文化村」という多くの観光客が訪れる観光名所があります。韓国政府はこのエリアをユネスコの世界文化遺産に登録しようとしています。
このエリアは戦前、釜山に住む日本人の共同墓地があった所です。日本の敗戦により朝鮮半島から引き揚げる日本人は、占領軍から手荷物2つ分・現金1,000円の所持しか認められず、現金に関しては出港時にポケットの中まで調べられました。朝鮮半島で築いた全ての個人資産を置いて来ざるを得なかった日本人。家族・先祖が眠る墓所もそのまま捨て置くしかなかったのです。
その3年後、朝鮮戦争が勃発すると釜山まで避難してきた避難民が日本人共同墓地で暮らし始め、そこに簡易住宅を建設しました。その資材として転用されたのが日本人が残してきた墓所や墓石・墓誌です。約70年以上経った現在も、韓国政府が観光エリアにと押し進めるこの村の至る所に、家屋の基礎として転用されている墓所や墓石・墓誌、村を登り降りする石段に転用されている墓石を見ることができます。戒名・苗字が書かれ墓石とハッキリ認識できる日本人には目を覆いたくなるものがあります。
韓国政府の発表では、1962年、釜山に散在していた日本人の遺骨・位牌・過去帳は当時の釜山市長の人道的考えから一ヶ所に集められ石碑と納牌堂が建立されたそうです。その後の都市開発で石碑・納牌堂は移転され、現在は「釜山市立公園墓地」に「日本人慰霊碑」「納牌堂」が建立され、「納牌堂」には1,528の位牌が安置されています。また釜山にある観龍寺というお寺のご住職は境内で石段として転用されていた墓石を取り出しお寺で供養されています。
「釜山市立公園墓地」には、 太平洋戦争で犠牲になられた朝鮮半島出身の軍人・軍属を弔う「太平洋戦争犠牲者慰霊碑」、2001年JR新大久保駅で線路に転落した日本人を助けようとして犠牲になられた韓国人留学生、李秀賢氏のお墓もあります。釜山を訪れたなら亡くなられた全ての尊い命に手を合わせたいと思います。