韓国の歴史教科書を批判する

韓国の主張する歴史、歴史教科書を批判します

日本が統治時代に建てた建物⑱(釜山③)

⬛︎釜山商業学校(現:釜慶高等学校)

1906年(明治39)開校。現在の釜慶高等学校に残る校舎は1928年(昭和3)に完成したもの

「商業学校の桜」鎮海と同じく釜山にも日本人の手で桜が植えられ、多くの桜の名所があった

 

 

⬛︎総督府官立釜山中学校→釜山公立中学校→釜山第一公立中学校(*現存しない)

朝鮮総督府により朝鮮で2番目に設立された旧制中学(1913年開校)。現在の「公立釜山高等学校」の前身にあたる

 

 

現代韓国の伝統高・名門校と呼ばれる学校の多くは日本統治時代に朝鮮総督府・朝鮮統監府・日本人実業家・日本人居留民団が設立したものだ。「京城帝国大学」→「ソウル大学校」、「大邱師範・医学専門・農業専門各学校」→「慶北大学校」、「京城中学校」→「ソウル高等学校」、「龍山中学校」→「龍山高等学校」などなど

釜山を挙げれば「釜山高等水産学校」→「釜慶大学校」をはじめ「釜山中学校」→「釜山高等学校」、「釜山第二公立中学校」→「慶南高等学校」、「釜山公立高等女学校」→「慶南中学校」、「釜山公立女子高等普通学校」→「慶南女子高等学校」、「釜山商業学校」→「釜慶高等学校」、「釜山公立工業学校」→「釜山工業高等学校」、「釜山商業実践学校」→「東州女子高等学校」などキリがない。

書堂しかなかった朝鮮に近代的な学校教育制度を整えたのは紛れもなく日本である。

韓国ドラマ・映画を見ていると戦前戦後の日本の学校制度をそのまま踏襲・模倣しているのがよく分かる。学校の配置から校舎・校章のデザイン、教室の机・椅子、上履きの使用、職員室、入学式・卒業式などの式典の様子まで日本の学校かと見間違るほどだ。運動会や修学旅行は明らかに統治時代の名残りであるし、韓国の男子中・高校生は80年代までは「学ラン・制帽・学生鞄」を着用していた。80年代になり「学ラン・制帽・学生鞄」が「日帝残滓清算」と時代の変化から次第に廃止されたが、「学ラン・制帽・学生鞄」ぐらいを廃止しただけで日本の影響力を取り除けたと思っているとしたらお目出度い限りだ。

表面上の影響力だけではない。学校現場で使用されている韓国語の全てが日本語と言って差し支えない。日本は、江戸時代には通詞が、明治期には福沢諭吉西周らが西洋の言語を日本語に翻訳し新たな日本語を生み出しだ。長らく鎖国し日本より遥かに近代化が遅れていた朝鮮は、日本統治による近代化で同時にそれまで朝鮮に存在しなかった近代化に伴う言語=日本語を輸入したのである。現在韓国はその日本語を韓国語読みしているに過ぎない(*これは中国も同じで現在中国語の80%が日本語熟語である。韓国は、現在韓国語の70%が漢字語で、漢字語の80%が日本語熟語である)。

学校・学生・教育・教室・授業・試験・補習・実習・聴講・時間割・出席・欠席・運動会・校門・職員室・小学校・中学校・高等学校・大学校・入学・退学・先生・担任・校長・教頭・教授・受験生・成績・合格・文房具・教科書・学生鞄・黒板・教材・問題集・参考書・当番・科目・学科・日記・国語・数学・理科・科学・歴史・暗算・物理・生物・道徳・美術・社会・質問etc.

日本人が韓国語を学習する時「漢字語から覚えよ」と言われる所以である。日本語だからだ。寧ろ覚える必要はない。日本人なら日本語を連想し、それを韓国語読みすればいいのだ。

これだけ戦前戦後の日本の学校制度を踏襲・模倣し、日本語を使用しながら学校現場で「反日教育」を行い、声高に「日帝残滓清算」を叫んでいる。必死に「日本隠し」を行なっているのが見て取れ痛々しい(笑)

 

「釜山尋常高等小学校」→「釜山公立高等女学校」(*現在の慶南中学校の前身にあたる)

戦前は日本人だけの女学校である。写真中央の少年は着物&下駄なので日本人であろう。お姉さんでも待っているのだろうか。その周りにいる白衣の朝鮮人男性は門や塀につかまり一体何をしているのだろう???

 

 

⬛︎釜山日本商品陳列館(*現存しない)

日本製品の見本市、及び展示販売のために建設された建物。1901年(明治34)竣工

 

 

⬛︎安田銀行 釜山支店(*現存しない)

1927年(昭和2)竣工。安田銀行は、朝鮮では釜山・京城(現:ソウル)・平壌・仁川に支店を構えていた

 

 

⬛︎第一銀行(現:みずほ銀行)釜山支店(*現存しない)

1873年(明治6)渋沢栄一が日本最古の銀行である「第一国立銀行」を創設する。「国立銀行条例」に伴い、1896年(明治29)一般銀行に改組し「第一銀行」となる。

釜山では1878(明治11)1月21日、日本人居留地に「第一国立銀行 釜山支店」を開設。これが朝鮮に於ける近代的金融機関の始まりである。1902年(明治35)「第一銀行」は大韓帝国政府の許可を得て朝鮮内において「第一銀行券」を発行する。

発行された「第一銀行券」。図案の肖像は2024年度からの新一万円札の顔でもある渋沢栄一

1905年(明治38)大韓帝国政府は「第一銀行」に貨幣整理及び国庫金取り扱い事務を委託し、「第一銀行券」の通用を公認、韓国中央銀行としての任務を与える。しかし、第一次日韓協約(1904年)により目賀田種太郎が大韓帝国の財政顧問に就くと、民間銀行に過ぎない「第一銀行」が外国の中央銀行業務を行なっていることを問題視し、併合前年の1909年(明治42)中央銀行である「韓国銀行」(*後に朝鮮銀行となる)を設立、「第一銀行」から中央銀行業務を移管させる。これにより「第一銀行」は普通銀行業務を行う京城(現:ソウル)支店・仁川支店を残し13の支店・営業所が朝鮮から撤退する。

1878年(明治11)日本人居留地に建てられた最初の「第一(国立)銀行 釜山支店」

1905年(明治38)1月、↑の写真の右隅に映る蔵の跡地に新築された「第一銀行 釜山支店」

 

 

⬛︎韓国銀行→朝鮮銀行 釜山支店(*現存しない)

「韓国銀行」は1909年(明治42)大韓帝国中央銀行として設立される。日韓併合の翌年1911年(明治44)に「朝鮮銀行」と改称する。写真左側の建物である