日本が統治時代に建てた建物⑯(釜山①)
1925年(大正14)竣工。朝鮮戦争では臨時首都庁舎として使用される
約10年前にエントランスに置かれた韓国の高麗犬?西洋建築とはミスマッチな気がするのは私だけだろうか…
門柱は当時のままである
博物館内に展示されている棟札
⬛︎釜山地方法院(*現存しない)
慶尚南道庁舎(現:東亜大学校博物館)の南隣にあった釜山地方法院
地図上の赤線は釜山市電(*路面電車)である。「釜山地方法院」の左側に「裁判所前」の停車場が見える。
釜山市電は、釜山軌道を経営していた大池忠助が東莱温泉への湯治客を輸送する目的で敷設された市電である。「釜山地方法院」跡である東亜大学校富民キャンパス屋外に展示されている車両は戦後にアメリカから輸入されたもので日本統治時代に走っていた車両ではない
日本統治時代の車両
⬛︎慶尚南道武徳殿(*現存しない)
日本弘道館釜山支部により、慶尚南道庁舎裏にかつて建てられていた建物。1926年建設。朝鮮戦争では臨時国会議事堂として使用される
慶尚南道庁舎(現:東亜大学校博物館)には「武徳」と書かれた瓦が展示されている
⬛︎慶尚南道知事官邸(現:臨時首都記念館)
1926年(大正15)8月竣工
朝鮮戦争では李承晩元大統領が臨時官邸とした建物である。李承晩といえば吉田茂が生涯嫌い、朝鮮戦争でアメリカ第8軍・国連軍を指揮したマシュー・リッジウェイ将軍を激怒させた人物だ。日本人の価値観からいえば一言「卑怯」という言葉に尽きる男だ。
朝鮮戦争では真っ先に逃げ、非難する自国民を橋もろとも爆破している(漢江人道橋爆破事件)。有事になるとトップが真っ先に逃げるのは朝鮮半島の伝統ではあるが…。いや逃げたのは李承晩だけではない。開戦前9万人いた韓国軍は、開戦3日で2万人近くにまで減っている。戦場の最前線でも韓国軍は逃げに逃げ連合軍を激怒させた。
李承晩は、釜山まで逃げたのには飽き足らず釜山陥落に備え、日本政府に山口県に6万人の亡命政府を樹立するよう要請している。戦前の李承晩は抗日運動家で、戦後の韓国では反日政策をとっていた大統領である。呆れてものが言えない。もちろん日本政府は断るのだが。韓国人や中国人のこのよう厚顔無恥さには本当に呆れるものがある。大陸・半島ではこのようなメンタルでなければ生けていけないのかも知れない…。
また朝鮮戦争の1952年(昭和27)に李承晩ラインを宣言し、竹島周辺で操業をしていた日本人漁民を拿捕、抑留した。拿捕した日本人漁民は3,929人に及び、うち44人が亡くなられている。劣悪な環境下で長い人では10年近くも抑留されている。日本政府が「日韓基本条約」(1965年)を不利ながら締結せざるを得なかったのは拿捕された日本人漁民を急ぎ救う必要があったからだ。韓国政府は、抑留していた日本人漁民を交渉カードとして利用した。韓国が竹島を実効支配し、領土問題が起こっているのもこの時からである。
韓国で李承晩は「国父」「建国の父」として歴代の大統領の中でもダントツの人気だ。日本人からすると「卑怯」という言葉がぴったり似合うのだが…やはり日本人と韓国人とでは価値観がかなり違うようである。
⬛︎管理庁→日本領事館→釜山府庁舎(*現存しない,石段のみが残る)
朝鮮開港とともに龍頭山の麓に「日本領事館」(*1880年(明治13)2月までは「管理庁」)が建設され、日韓併合後は「釜山府庁舎」と名称が変わる
1879年(明治12年)完成
1884年(明治17)改築、左:釜山居留民団役所,中央:管理庁,右:警察署
1936年(昭和11)に大橋通3丁目(現:中央洞7街)に移転新築された釜山府庁舎
右後ろに映るのは釜山大橋 渡津橋(現:影島大橋)
⬛︎釜山駅(*現存しない)
設計は辰野金吾、1908年(明治41)4月1日開業
左:釜山公会堂(1928年(昭和3)完成),中央:釜山駅ホテル(釜山停車場旅館)右:釜山駅