歴史繚乱ブログ

元禄事件(忠臣蔵)の考察、史跡廻りなど

韓国の歴史教科書「近現代史(政治②)開国〜日韓併合」

f:id:ohishimayu:20220405151844j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152018j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152037j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152054j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152108j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152128j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152146j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152215j:plain

f:id:ohishimayu:20220405152243j:plain

 

開花と主権守護運動

興宣大院君の政策

 19世紀半ば朝鮮社会は、内には勢道政治に抵抗する民衆勢力が成長し、外には日本と西洋列強が侵略してきた。

 高宗の即位(1863)によって政治的実権を掌握した興宣大院君は王朝の危機を克服し、失墜した王権を回復しようとした。すなわち、能力中心の人材登用、景福宮の再建、備辺司廃止、議政府と三軍府の機能回復、『大典会通』の編纂などによって王権を強化した。また、朋党の根拠地と認識されてきた書院を47ヵ所だけを残して撤廃すると同時に、農民蜂起の原因と目された三政を改革して国家財政を拡充し、民生を安定させようと努力した。

 興宣大院君は丙寅洋擾(1866)と辛末洋擾(1871)を経て、全国に斥和碑を建て、通商修好拒否政策を断固として維持した。このような対外政策は外勢の侵略を一時的に阻止することには成功したが、朝鮮の門戸開放を遅らせる結果をもたらした。

 

開港と開化政策

 1873年に高宗の親政によって興宣大院君が退き、閔氏勢力が権力を握り、開港と通商貿易を主張する集団が政治的に成長した。このような動きの中で日本は韓半島侵略をうかがい、雲揚号事件を引き起こした。これをきっかけに朝鮮は日本と江華島条約を結んで国の門を開いた(1876)。江華島条約はわが国最初の近代的条約だったが、釜山と他二港を開港し、日本に治外法権や海岸測量権などを明け渡した不平等条約だった。

 ついで朝鮮政府はアメリカと条約(1882)を結んだ後、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなど西洋列強とも外交関係を結んだ。これらの条約もやはり治外法権最恵国待愚を規定した不平等条約だった。

 開港以後、清と日本が朝鮮をめぐって侵略競争をくり広げる中で、朝鮮政府は富国強兵を目標に開化政策を推し進めた。政府ではこの開化政策を専門に担当する機構として統理機務衙門を設置し、新式軍隊である別技軍を創設し、日本や清、アメリカに使節団を送って新式文物を学ばせた。

 一方、政府の開化政策推進に対して、伝統的な儒生層は性理学的伝統秩序を守り、外勢を排斥する衛正斥邪運動を展開した。彼らを開港と開化に反対する上訴をして政府の政策に反発した。

 開化政策の推進過程で疎外され、被害を被った旧式軍人、下層民などによって壬午軍乱が起きた(1882)。これに対し、閲氏勢力は清に援兵を要請し、ソウルに入ってきた清の軍隊は一時政権を握った大院君を清に連行した。

 

江華島条約

正式名称は朝日修好条規で、丙子修好条約ともいう。この条約に続いて日本商品に対する無関税、朝鮮糧穀の無制限の輸出などを規定した通商章呈を結んだ。

 

甲申政変

 壬午軍乱以後、清は朝鮮内政への干渉と経済侵略を強化した。これに反発した金玉均、朴泳孝など急進的開化勢力は、日本の軍事的な支援を受けて甲申政変を引き起こした(1884)。

 彼らは清との儀礼的事大関係を廃止し、立憲君主制的政治構造を指向し、人民平等権と能力による人材登用を主張した。また、地租法を実施し、戸曹に財政を一元化し、恵商公局を廃止して自由な商業の発展を図った。

 だが、開化派政権は清軍の介入で3日で倒れてしまった。これは甲申政変推進勢力の政治・軍事的基盤が弱く、民衆の支持を得ることができず外勢に依存したためだった。しかし、甲申政変は近代国民国家建設を目標とした最初の政治改革運動だったことに意味がある。

 甲申政変以後、朝鮮政府は清の行き過ぎた内政干渉から抜け出そうと、ロシアとの外交関係を強化しようとした。この過程で朝鮮に対するロシアの勢力拡張に不安を感じたイギリスは巨文島を不法に占領した(1885)。このように列強の朝鮮侵略が激しくなると、朝鮮駐在ドイツ外交官であるプドラーや開化派知識人兪吉濬らは朝鮮を中立国とする論議を構想したりした。

 

東学農民運動

 開化政策の推進にもかかわらず三政の乱れ、近代文物の受け入れ、各種賠償金の支払い、日本の経済的侵入などによって農民層の不安と不満が高まつた。政治・社会的意識が急成長した農村知識人と農民による社会変革への欲求も高くなった。このような雰囲気の中で人間の平等と社会改革を主張した東学が三南地方を中心に広がった。

 東学農民運動はl894年全羅道古阜で始まった。全琫準を中心とした農民層は古阜郡守趙秉甲の貪欲さと横暴に蜂起して以後、輔国安民と除暴救民を掲げ、全羅道一帯を掌握した。政府と農民軍は全州で弊害の多い政治を改革することに合意し、各地に執綱所を設置してこれを実践していった。しかし日本軍が清日戦争を引き起こし、内政に千渉すると、農民軍は再び蜂起して外勢を追い出すためにソウルに進撃した。だが、天津条約を口実にしてわが国に派遣された、優勢な武器で武装した日本軍に農民軍は公州牛金峙で敗れ、指導部が逮捕され、この運動は失敗に終わった。

 東学農民運動は農民層が伝統的支配体制に反対する改革政治を要求し、外勢の侵略を自主的にはね除けようとした点で、下からの反封建的、反侵略的民族運動であった。たとえ当時の執権勢力と日本侵略勢力の弾圧によって運動自体は失敗したとしても、彼らの要求は甲午改革に部分的に反映された。

 

甲午改革と乙未改革

 農民の不満と改革への要求によって、政府はこれを反映した改革を推し進めざるをえなかった。このとき、日本は朝鮮への干渉を維持するために景福宮を占領し、清日戦争を引き起こした(1894)。金弘集内閣は農民の不満と改革への要求を反映させようと軍国機務処を設置し、政治、経済、社会など国家の主要政策に対する改革を推し進めた(甲午改革、1894)。

 甲午改革では内閣の権限を強化し、王権を制限した。そして身分制を撤廃し、各種の弊習を打破した。また、銀位制度と租税金納化を実施し、度支衙門が国家財政を管轄するようにした。高宗は改革を積極的に推し進めようと洪範十皿条を頒布した。

 一方、ロシアなどの三国干渉によって日本の勢力は弱まった。この隙に乗じて明成皇后がロシアと手を組み日本を牽制しようとすると、日本は乙未事変を引き起こした(明成皇后殺害事件、1895)。この事件後、開化派政府は改革事業を再開し、断髪令などを実施した(乙未改革)。

 甲午改革と乙未改革は伝統的社会秩序を打破し、農民層の改革への要求も一部反映された改革だった。ところが当時もっとも切実な課題であった軍事的改革、農民が要求した土地制度の改革などは行われず、日本の干渉を排除できなかった点で限界を持っていた。

 全国の儒生と農民は、明成皇后殺害と断髪令実施に抵抗して大々的に義兵に立ち上がった。このときの義兵は柳麟錫、李昭応、許薦など衛正斥邪思想を持った儒生が主導し、農民層が加わって全国的に拡大した。

 

独立協会と大韓帝国

 日本の侵略と急進的な甲午・乙未改革の実施によって、大部分の国民の間に反日の雰囲気が広がった。また、高宗は王権を制約しようとする開化勢力の改革に不満を持ち、乙未事変後には身辺の危険まで感じるようになった。これに対し、高宗はロシア公使館に避難し(俄館播遷、1896)、開化派政府は倒れた。以後高宗は内閣制廃止断髪令撤回、義兵解散勧告措置などを断行した。俄館播遷によって国家の自主性は傷つき、鉱山、森林などに対する列強の利権侵奪も激しくなった。このような状況で徐載弼らは『独立新聞』を創刊して西欧の自由民権思想を紹介し、独立協会を創立した(1896)。

 独立協会は講演会や討論会などを通して、民衆に近代的知識と国権・民権思想を鼓吹し、広範な社会階層に支持される団体に発展した。また、独立協会はしばしば国権、自由民権などを達成しようとする政治運動を展開し、万民共同会と官民共同会を開催して献議六条を決議した。

 ところが、独立協会の活動は西欧式立憲君主制の実現を目標としたため保守勢力と対立した。独立協会は保守勢力が動員した皇国協会に妨害され、結局3年で解散してしまった。

 一方、高宗はロシア公使館から約1年ぶりに還宮打した後、自主独立の近代国家をうちたてようとする国民的熱望と、ロシアを牽制しようとする国際世論に後押しされ、大韓帝国を樹立した(1897)。高宗は皇帝に即位し、年号を光武とし、自主国家であることを国内外に宣布した。

 大韓帝国は「昔の制度を根本とし、新しい制度を参酌する」という旧本新参の改革方向を提示し、大韓国国制を制定して皇権を強化した。また、量田事業を実施して地契を発給し、商工業振興策を推し進めた。しかし、このような改革政策は執権層の保守的指向と列強の干渉によって大した成果を収められなかった。

 

日帝の国権侵奪

 日帝は第1次英日同盟(1902)を締結して国際的立場を強化した後、韓半島の支配権をめぐってロシアを先制攻撃して戦争を引き起こした(露日戦争1904)。大韓帝国は局外中立を宣言したが、日帝はこれを無視し、韓日議定書を強制的に締結して政治的干渉と軍事的占領を企てた。そして、これに墓づいて第1次韓日協約を締結して外交、財政などの各分野に日本が推薦する顧問を置いて韓国の内政に干渉した。

 日帝アメリカとは桂・タフト密約、イギリスとは第2次英日同盟を結んだ後、露日戦争で勝利すると、ロシアとポーツマス条約を締結しで、国際社会から韓半島への独占的支配権を承認された。そして一方的に乙巳条約を発表して大韓帝国の外交権を奪い、統監府を設置して保護国とした(1905)。

 乙巳条約の無効を主張する高宗がハーグに特使を派遣すると、日帝はこれを口実に高宗を強制退位させ、純宗を即位させた。ついで韓日新協約(丁未七条約)を締結して韓国政府の各部に日本人次官を置いて内政を掌握し、軍隊まで解散させ、実質的に韓国を支配した(1907)。そして全国的な義兵の抵抗を武力で鎮圧し、司法権と警察権を奪った後、大韓帝国を植民地とした(1910)。

 一方、日帝は露日戦争中に鬱陵島に付属していた独島を島根県編入させると発表した。しかしこれは当時大韓帝国の国権を強奪した日帝の一方的な主張にすぎない。独島は歴史的事実としても国際法上も大韓帝国を継承したわが領土である。

 また、日帝は清から安奉線の鉄道敷設権を譲らせる代わりに、間島地方に対する管理権限を清に譲り渡した。19世紀に至って土們江の位置の解釈の違いによって朝鮮と清の間に問題が起きた。結局、間島はわが外交権が不法に喪失させられた状態で清と日本の間に締結された間島協約(1909)によって清の領土に帰属してしまった。

 

高宗と乙巳条約

乙巳条約は第2次•日協約ともいう。日本の武力的な強圧の中でこれに同調した李完用をはじめ乙巳五賊が賣成して締結されたと伝えられているが、条約の過程は強制的に進められ、高宗が最後まで署名しなかったため条約は成立しなかった。

 

間島帰属問題

間島協約によって日帝は間島を清の領土と認定したが、最近土們江と豆満江は別の川だという各種資料が発見されている。これによって間島の帰属問題がふたたび注目されている。

 

抗日義兵戦争と愛国啓蒙運動

 日帝の主権侵奪に対して各界各層の人々は日帝と乙巳五賊を糾弾し、条約破棄のためにさまざまな形で抗日運動を展開した。安重根は初代統監を務めた伊藤博文ハルビンで射殺し、張仁煥と田明雲は外交顧問だったスティーブンスをサンフランシスコで射殺するなど激しく抵抗した。

 義兵戦争も乙巳条約をきっかけに広がった。このとき、閔宗植、雀益鉉など両班出身の義兵将をはじめ、平民出身の義兵将申乭石の活躍が著しかった。

 高宗の強制退位と軍隊解散をきっかけに、義兵抗争はいっそう高揚した。日帝に解散させられた軍隊の軍人が合流し、義兵の戦闘力が強化され、活動領域も間島や沿海州など国外にまで拡大した。しかし日本正規軍の火力に比べて劣勢であり、義兵を主導した両班儒生層と平民義兵将との対立が引き起こされたりもした。

 義兵は連合戦線を形成して十三道倡義軍を結成し、ソウル進攻作戦をくり広げたが、失敗してしまった(1908)。これをきっかけに義兵は小規模な遊撃戦を展開し、一部は満州沿海州に渡り、独立軍となった。

 義兵戦争は外勢の侵略に対抗した代表的な救国運動だった。民族の強靱な抵抗精神を表したり、国権回復の武装闘争を展開して、日帝下の抗日武装独立闘争の基盤を整えた点でその意義は大きい。

 一方、いくつかの社会団体も設立されて救国運動を展開した。初期には日本の荒地開墾権要求を挫折させた保安会や、立憲政治体制の樹立を目的に設立された護政研究会の活動が著しかった。乙巳条約以後は大韓自強会や大韓協会、新民会などの団体が国権回復の啓蒙運動を展開した。

 この中で新民会は、国権回復と共和政治体制の国民国家建設を目標とした秘密組織だった。新民会は国内で文化的、経済的実力養成運動を展開し。次第に国外で独立軍基地の建設など軍事的実力養成を試みたが、105人事件で解体された。

 愛国啓蒙運動は日帝によって政治的、軍事的に隷属した状態で展開され、抗日闘争の成果の面では一定の限界があったとしても、民族独立運動の理念と戦略を指し示し、長期的な民族独立運動の基盤を築いた点で意味がある。

 

105人事件

1911年、日帝は西北地方を中心とした排日カトリック勢力と新民会の抗日運動を弾圧しようと、寺内総督暗殺を捏造して数百人の民族指導者を投獄し、中心人物105人を裁判に付した。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

開国から大韓帝国時代までの朝鮮半島。教科書ではあたかも「朝鮮の先人も改革しようと邁進してたんだけど、日本・清・ロシアの侵略が激しくてね。思うように改革できなかったんだよ…」といったニュアンスです。

実際の朝鮮半島はといえば、民衆の生活など全く顧みず、トップの大院君と閔妃が権力闘争に終始するのみでした。外国勢力を招き入れた元凶もこの二人です。日本が日清・日露戦争を戦え羽目になったのもここに起因します。

 

無能なクセに全部外国のせいにするなよ!!!て言うのは言い過ぎですかね(笑笑)

 

朝鮮にも勿論、賢い人はいます。朝鮮を開化し改革しようとした金玉均もその一人。しかし、クーデターに失敗し日本へ亡命。その後、上海に誘き寄せられたところを暗殺され朝鮮半島凌遅刑にされています(晒された首の写真はネットで閲覧可能です)。

賢者を活かせられない、同じ朝鮮人が足を引っ張るというのも朝鮮半島ではよくみられることです。

 

韓国の歴史教科書で現代史になると頻繁に出てくるフレーズがあります。

 ◯◯◯しようとしたが実現できなかった。ただし、◯◯◯しようとしたことに意義がある。

 ◯◯◯しようとしたが失敗した。ただし、◯◯◯しようとしたことに意味がある。

現在韓国人のコンプレックスの一つかも知れないこのフレーズ、探してみてください(笑)