歴史繚乱ブログ

元禄事件(忠臣蔵)の考察、史跡廻りなど

韓国の歴史教科書「三韓時代の伽耶諸国=任那」

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三韓(韓)
 古朝鮮の南の地域には早くから辰が成長していた。辰は紀元前2世紀頃古朝鮮の妨害で中国との交通が阻まれたりした。 しかし、辰には古朝鮮社会の変動によって大挙して南下してくる流移民によって新しい文化が普及し、土着文化と融合しながら社会がさらに発展した。そうして馬韓弁韓辰韓の連盟体が現れた。
 馬韓は天安・益山・羅州地域を中心にして京畿・忠清・全羅道地方で発展した。馬韓は54の小国、10余万戸からなっていた。 その中で大きな国は1万余戸、小さな国は数千戸だった。
 弁韓は金海・馬山地域を中心に、辰韓は大郎・慶州地域を中心に発展した。弁韓辰韓はそれぞれ12国、4万~5万戸からなっていた。 そのうち大きな国は4000〜5000戸、小さな国600〜700戸だった。

 三韓の中で馬韓の勢力がもっとも大きく、馬韓をつくっている小国の一つである目支国の支配者が馬韓王または辰王に推戴され、三韓全体の主導勢力となった。三韓の支配者の中で勢力が大きいものは臣智、小さなものは屈祉などと呼ばれた。

 一方、三韓には政治的支配者に祭祀長である天君がいた。そして神聖な地域として蘇塗があったが、天君は農耕と宗教に対する儀礼を司った。天君が司る蘇塗には君長の勢力が及ばず、罪人でも逃亡してここに隠れれば捕まらなかった。このような祭祀長の存在から原始信仰の変化と祭政の分離をうかがうことができる。

  小国の一般人は村落に暮らし、農業と手工業の生産を担い、藁屋根の半竪穴住居や丸太小屋に住んだ。また、共同体的な伝統を表すし屋根の半竪穴住居や丸太小屋に住んだ。また、共同体的な伝統を表すトゥレ組織を通してさまざまな共同作業をした。

 三韓では毎年種を蒔いた後の5月の端午の日と、秋の穀物を収める10月に季節祭を開いて天に祭祀を捧げた。このような祭天行事のときには、全国の人々がみな集まって毎日食べ物と酒を用意して歌を歌い、踊りを楽しんだ。

 三韓社会は鉄器文化を土台にする農耕社会だった。鉄製農機具の使用によって農耕が発達し、稲作を行った。特に、弁韓では鉄がたくさん生産され、楽浪、倭などに輸出した。鉄は交易のとき貨幣のように使われたりした。

 このような鉄器時代後期の文化発展は、三韓社会の変動をもたらした。今の漢江流域では百済国が成長し、馬韓地域を統合していった。また洛東江流域では狗耶国が、その東では斯慮国が成長して中央集権国家の基盤を整えながら、それぞれ伽耶連盟体と新羅の基盤を固めていった。

ー『韓国の高校歴史教科書ー高等学校国定国史』(明石書店)よりー

 

 

⚫︎大倭王は邪馬臺国に居住している。楽浪郡の(南の)境界は、邪馬臺国から一万二千里も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国(慶尚南道金海郡地方)から七千余里離れている。             (『後漢書』倭伝)

⚫︎(帯方)郡より倭に行くには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓(族)の国々を歴て、しばらくは南に、しばらくは東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。(この間の距離は)七千余里である。  (『魏志倭人伝』)

⚫︎馬韓は西(部)にあり、五十四国がある。(馬韓の)北は楽浪(郡)と、南は倭と接している。(中略)弁辰は辰韓の南にあって、これまた十二国ある。(弁辰の)南もまた倭と接している。         (『後漢書』韓伝)

⚫︎韓は帯方(郡)の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している。                     (『三国志』魏書韓伝)

⚫︎弁辰は、辰韓と入り雑って生活している。(中略)(弁辰の)瀆廬国は倭と(境界を)接している。              (『三国志』魏書弁辰伝)  

ー『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』(PHP研究所)よりー

 

朝鮮半島南部は倭国の領土だったのか、伽耶諸国を意味しているのか。

当時の中国は伽耶諸国を倭国の領土だと認識していたようです。日本も『日本書紀』では伽耶諸国を任那と呼び、倭国が統治している地域と認識を持っていました。

 

紀元前1000年の弥生時代が始まった頃には、北九州と朝鮮半島南端部の交易はよりさかんになりました。三韓に分かれる前、「辰(韓)」といわれる時代の朝鮮半島南部は、倭人と韓人(現在の朝鮮民族とは別)が雑居し、特に朝鮮半島南端部には多くの倭人が居住する地域がありました。倭・弁韓伽耶諸国)・辰韓は極めて近い文化を共有し、倭人辰韓人の話す言葉を倭国の方言だと思っていたようです。なかでも倭・弁韓伽耶諸国)は同じ文化圏に属していました。

 

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武光誠『ヤマト政権と朝鮮半島 謎の古代外交史』(河出書房新社)より

 

伽耶諸国=任那の範囲は研究者によって見解の違うところですが、『日本書紀』の通り読めば以下に掲載する図、下段2枚の範囲になります。上段2枚は韓国の高校歴史教科書より抜粋したものです。

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上段は韓国の歴史教科書から抜粋の伽耶諸国=任那の範囲,
下段は山田宗睦訳『原本現代訳 日本書紀』から抜粋の伽耶諸国=任那の範囲

 

韓国全羅道(南西部)に多数残る前方後円墳朝鮮半島南部から大量に出土する倭系遺物。韓国の高校歴史教科書には古代の古墳や出土品についてもページを割き写真付きで記述しています。しかしそこに前方後円墳も倭系遺物はありません。韓国にとって古代朝鮮半島南部に多くの倭人がいて勢力を奮っていたとう史実は都合の悪い歴史のようです。